March 30, 2012

Number799感想 なんとも「もにょる」

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August 14, 2010

書評: 木崎伸也 「世界は日本サッカーをどう報じたか」

そもそもなぜ、我われは「世界はどう報じたか」を気にしなければならないのだろうか?

いきなりこの疑問からスタートしてみよう。本書のかなり早いあたりにその答えは示される。

勝った、負けたと一喜一憂するだけに留まっていたら、日本サッカーは伸びていかない。何も変わらないのである。

日本のサッカーは発展途上の途中で、まだ美学と呼べるようなサッカーのスタイルは残念ながら確立されていない。日本のスポーツ報道にも、同じく成長していくことが求められる。
だからまだ今は、外からの視点が必要だ(43ページ)

「美学」である。

この言葉は、「はじめに」の中にも出現する。

柔道の「一本で勝つ」という文化を見れば分かるように、日本は勝ちにこだわると同時に、どのように勝つかという美学やスタイルにも思いを巡らせることができる国のはずだ。

ならばサッカーにも、美学を求めるべきではないか。

ここに私は、「サッカーファン」と「サポーター」の抜きがたい差をみるのである。


今大会のオランダをどう捉えるか


第1章のタイトルはそのものズバリ「なぜ、世界の報道を見るか?」というものだが、その冒頭に、74年ワールドカップのオランダのエピソードが出てくる。クライフを擁したこの時のオランダが、敗退はしたが世界中から讃えられたことで、木崎氏は以下のように言う。

つまるところ、サッカーの世界一を決めるワールドカップというのは、結果だけがすべての大会ではない。その歴史に名を刻むには、どう勝って、どう引き分けて、どう負けて、何を見せられたか、ということも問われるのだ。

これは、こういうテーマのときに非常によく出てくるテーゼである。しかし、はたしてそれは真実なのか。

非常によく符合する報道がある。

クライフ氏、母国オランダを痛烈に批判

 元オランダ代表の伝説的選手、ヨハン・クライフ氏が13日付スペイン紙エル・ペリオディコのコラムで、南アW杯での母国代表を強く非難した。「オランダのスタイルは醜く低俗。スペインを動揺させるために、汚いプレーを展開した」と9枚のイエローカードに表れた相手の長所を消すためだけのラフプレーを疑問視した。

今大会のオランダは、かつてのイメージのオランダではなかった。

先制していてもリスクを取って攻撃し続ける、ある種「勝敗よりもスタイルにこだわる」ようなチームではなくなっていた。日本戦でもみられたように、先制すれば引いて守ってカウンターを狙い、スペイン戦では守備を重視しつつファウルすれすれのチャージでスペインのパス回しを分断しようとする。強いには強いが、かつてのオランダの持っていた「スタイル」や「美学」からは離れてしまったようなチームだった。

特に決勝戦での戦いを、「美学の権化」クライフが酷評するのも当然だろう。

しかし、クライフ以外のオランダ国民はどうだったか。

オランダ“優勝運河パレード”計画 F16戦闘機も出動だ

優勝したみたい ロッベン「オランダファンは世界で一番だ」

スポーツ新聞の報道だから割り引いてみるにしても、どうやらそれなりに歓迎されていたようである。木崎氏の言う「美学」があるはずのオランダ国民でも、W杯決勝で「負けた」準優勝、それもクライフの酷評するようなラフプレイ連発の結果の準優勝が、かなり嬉しかったようなのである。

これはどうしたことだろう。

「W杯は結果だけがすべての大会ではない」というテーゼは、正しいのだろうか?


当事者か、それ以外か。

結論から言えば、正しくもあり、正しくもない、だろう。そして、その差を分けるのは、一つには当事者か、否か、ということではないだろうか。

かつてのオランダのスタイルや、スペインのそれが評判がよく、愛されていたというのは、当のオランダやスペインの国民にもそうだが、それに数倍する数の、当事者ではない「ファン」の間で、ではないだろうか。

「W杯の歴史に名を刻めるかどうか」というのは、当事国の国民だけではなく、その大会を見つめた世界中の多くの人々の記憶に残る、という意味だろう。「当事者以外」にとっては、それはエンターテイメント性の高い、「美学」のあるサッカーのほうが見て楽しいだろう。当然のことだ。

そして日本は長いこと、W杯の「当事者」になれないで来たのである。だから、そういう見方が根づいてしまった、のではないか。

しかし、W杯に出場する「当事者」となってみれば、「W杯ではまず何よりも結果を」となる。「サポーター」とはそういうものだろう。チームに対する「当事者」なのだ。もちろん、中長期的に見て内容を求めるサポもいるだろうが、それにしても眼の前に試合があれば「まず結果を」となるのが「サポーター」=「当事者」だろう。今回のオランダ国民の歓喜も、当事者ゆえのもの、なのだと私には思える。

「当事者にとってはまず結果を。外から見ているファンにとってはエンターテイメント性を」

これが結論なのではないだろうか。

さて、ここで反証が出てくる。「かつてのオランダはどうだったか?」「スペインは?」「ブラジルはどうか?」


結果以外を問う資格


ご存知のようにブラジルも、敗れはしても82年の「黄金のカルテット」が絶賛され、94年のように優勝はしても守備的なチームは批判されるようなお国柄である。かの国の国民も「W杯は結果だけがすべての大会ではない」と思っているだろう。

だが我々は彼らと同じことを考えるべきだろうか?

例えば今大会、スイスは非常に堅い守備をベースに、堅守速攻で勝ち上がってきた。パラグアイもその系譜に入るだろう。彼ら、欧州、南米の中堅の国々は、W杯予選でそれぞれ超ビッグチームと伍して戦っていかなくてはならないために、そういうスタイルが染み付いている。さて、彼らのサッカーに対して我われは「W杯は結果だけがすべての大会ではない」と非難しなくてはならないのだろうか?

そんなことはまったくあるまい。

私は、「W杯は結果だけがすべての大会ではない」と考えるには、資格がいると思う。

「W杯に参加することは当たり前」「W杯でGLを突破することも当たり前」「その上で、決勝トーナメントで勝利することが相当程度期待される」ような国、サッカー大国、サッカー強国と呼ばれるような国。つまり「結果」を出したことがあり、それが当然のように要求されるチームであって初めて、結果「だけ」ではないと言いえるのだと思う。

日本はブラジルでも、オランダでも、スペインでもない。スイスや、パラグアイのレベルに、今大会でようやく肩を並べたか、まだ早いか、という段階だろう。そのような国が「美学」を口にし、勝つことよりも、観戦してくれる「当事者以外」を魅了する、退屈ではないサッカーを目指す。木崎氏はそういうことを要求しているのだ。

はたしてそれはロジカルなことだろうか?


「美学」なんかいらない


本書の出発点は「岡田日本は結果を残したが、内容的には今後の指針とすべきなのかどうか?」という問題設定だろう。そしてその「内容」の部分を、多くの海外のサッカー関係者の意見を通じて洗い出していこうとするものだ。その狙い自体は理解できるし、興味をそそられる部分もある。また実際に海外の識者の発言そのものの中には、なかなか示唆に富むものもある。

しかし、それらの発言をまとめ、読み解いていく木崎氏のスタンドポイントが、上記のような「日本は美学を持つべきだ」からスタートしているため、私にはどうにも違和感のあるものになっている。終章には、次のような一説がある。

「枠内シュート率」の高さをさらに生かすためにも、サッカー大国が決してやらないような“禁じ手”ではなく、もっと勇気を持って攻撃的に行くべきだった。

まあ本書は新書版でもあり、一般の読者にわかりやすくするためではあろうが、これでは、世の中には「サッカー大国」と「弱者」の2者しかいないような書き方ではないか。

しかし、欧州や南米の中堅レベルの国に、基本的に守備を固めてカウンターという戦い方をするところが多いということを無視しているのは、やはりおかしいだろう。日本がスイスやパラグアイに比べて突出して強いというわけではないのだから、彼らのようなやり方を採用することも、“禁じ手”などではないはずだ(それを今後も採用すべきかどうかの議論は、ここでは深入りしないが)。

本書であげられた「日本代表の問題点」の中には、国内外の多様な意見をベースにした意義のある提言もあると思うのだが、肝心の岡田日本に対する評価のところで、上記のように分析が精度を欠いているために、全体としてはちょっと残念なできになっていると思う。

ただ・・・。


何という皮肉!


本書中の白眉は、166、167ページに現れる、(日本通のオランダ人記者だという)テオ・ライゼナールとヒディンクの提言である。彼らはなんとも興味深いことに、本書の存在意義を真っ向から否定するのだ。しかし、木崎氏は本書の存在意義を否定されていることには触れず、そこから得られる教訓を「パラグアイ戦で後一歩が足りなかった理由」としてあげている。ここで言われている「足りなかった理由」は、私にはなかなかうなずかされることだった。この部分だけでも、本書を一読する意義はあると思う。

日本には、明治以来連綿と「海外により進んだものがあるので、その視点から日本を批判する」というスタイルの評論家の存在がある。「坂の上の雲」スタイルとでも言おうか。日本が諸外国に追いつき、追い越せと走り続けたこの100年間の、精神的バックボーンに彼らはなってきた。サッカーは、経済や文化の諸ジャンルから遅れて、この20年ほど急速に発展してきたため、ちょうどまさに今、そういう評論家たちが跋扈している状態にある、と私は思っている。

金子達仁氏や、杉山茂樹氏らは、「海外の進んだサッカーのエッセンスを紹介する」というスタイルで、日本のサッカー界においてそういう役割を担ってきた。90年代(後半)、00年代を通じて、彼らの存在はそれなりに時代の要請だったのだろうと、私は思う。坂の上を目指して進む日本サッカーには、周りで「坂の上はあっちだ」とはやし立てる存在も、必要だったのだろう。そのわかりやすさは、サッカー界以外からも認められた。

しかし、本書中でいみじくもテオ・ライゼナールとヒディンクの提言が、日本はもはやそれから脱却すべき時だということを、高々と告げている。いみじくも、いみじくも!である。木崎氏は、金子達仁氏のスポーツライター塾の卒業生である。その彼が、自身の著書の中で、「そういう存在はもういらない」「そういうものを必要としていては、日本は強くなれない」という結論を出してしまうとは、なんと皮肉なことだろう!

本書は、おそらく著者自身も気づいていないこの皮肉な結論部分において、かなり、かなり価値のある一冊となっていると思う。それにしても木崎氏は、金子氏から受け継いだこの「坂の上の雲」スタイルを今後も続けていくのだろうか?それとも、テオ・ライゼナールやヒディンクの提言に従って、また別のスタイルを模索するのだろうか?余計なおせっかいではあるが、気になるところである。

それではまた。

09:04 PM [メディア] | 固定リンク | コメント | トラックバック(1)|

August 07, 2010

re:宇都宮徹壱さんのこと

ミカミカンタ氏が自身のBLOGで「宇都宮徹壱さんのこと」というエントリーを書かれた。これに対しTwitter上では賛否両論が出て、小さくない波紋を投げかけている。今回はこのエントリーと、そこから考えさせられたことについて書いてみたい。

ちなみに、ご存知の方もあるかもしれないが、私は宇都宮さんとやや面識がある。SoccerCastにも何度か出演いただき、勝手ながら友誼を感じさせていただいている。が、今回はあえてその部分を封印し、ここからは「宇都宮氏」として書いていきたいと思う。

さて、ミカミさんのエントリーに対する私のTwitterのTL上の反応は、「わかりにくい」というものが過半であった(この書き方には問題もあると思うが*1)。これは私にはやや意外であった。私には非常によく響き、考えさせられるものだったからだ。ただ、再読してみると、確かに全体を通して一つの主張が描き出されているとは言いにくいものではあった

エントリーは大きく分けて3つの部分から構成されている。最初は、ミカミ氏と宇都宮さんの関係の話題、次に「JマスコットINTV企画」の話題、そして最後が「岡田監督に謝れ」の話題である。この3つ、特に後半の2つの関係が、ややバラバラに見えるのが、先に書いた「わかりにくさ」の原因だろう。ただ、その両者はミカミ氏の次の一文で貫かれていると思う。

宇都宮さん、あなたはすでにファンやサポーターではないのです。
そしてそれの代表者でも代弁者でも決してない。

ここがミカミ氏の最も言いたかったことだと私は推測する。つまりこの文章は、宇都宮氏の「立ち位置」「スタンス」についてがテーマなのである(と私は思う…以下この「私が思う」は省略するので、脳内で補足して読んでください)。そしてこれは、私が常日頃から宇都宮氏について考えていたことと非常にシンクロし、私にビンと響いたのである。

私が宇都宮氏について考えていたこととは、どんなことか。

山岡士郎としての宇都宮徹壱

以前Twitterで、宇都宮さんが「サッカーライター周辺は絵にならないので、ドラマやマンガになりにくい」という趣旨のことをつぶやかれたことがあった(以下のつぶやきその他は私の記憶をもとに再構成させていただいている)。私はそれに反応し、「対立があるところにドラマは作りやすい。例えば以下のような主人公はどうか」とリプライさせていただいた。

業界の権威である御大サッカーライターに反抗し、サッカー協会にも臆さず批判をぶつけ、新しいメディアであるネットをもっと受け入れるようにJリーグ広報と対立し、ビッグクラブに背を向けマイナーなクラブを愛し、そしてサポやファンと分け隔てなく交流しているような、そんなはぐれ者サッカーライター

これは、モチーフとしては「美味しんぼ」の山岡士郎そのまんまである。「リーガだ、CLだってありがたがるサッカー通ってのはこっけいだねえ!」とケンカを売る山岡の姿が目に浮かぶようではないか(笑)。しかして、これをつぶいた直後、「それってなんて宇都宮さん?」とリプライを頂いた。そう、宇都宮氏を知る者なら誰もが納得すると思うのだが、私も上記の主人公のキャラを考えるにあたり、氏を念頭に置いていたのだ。

宇都宮氏はご存知のように、けしてメジャーとは言えない国のクラブを追っかけたり、日本でもビッグクラブではなく、Jリーグを目指して立ちあげたてのJFLクラブを巡ったり、という活動を続けてきたライターである。それはおそらく、彼の生まれ持っての性向、志向によるものが大きいだろう。どうしても弱きもの、小さきものへと目線を向け、愛してしまう、そういう気質。

そしてそれはおそらく必然的に、宇都宮氏がサポーターへの目線を持ち、交流をすることへつながっていった、のだと思う。

ここで今書いた「サポーター」に、一つ補足をしておかなくてはならない。それは、代表サポの中でも、「日本サッカー協会に対して厳しい目を向けるサポーター」たちへの目線、交流ということだ。

私自身、宇都宮氏と初めて面識を持ったのは、ドイツW杯後の「川淵会長解任デモ」に関して取材をしていただいた時だった。これも、宇都宮氏の中にある「権威(協会)と対立する弱者」への肩入れ、という部分が多少なりともあったのではないだろうか。

さて、上記のようにサポーターと交流を持っている宇都宮氏だが、さらにそれが加速されたのは、mixiに代表されるソーシャルネットワークの隆盛によるものだった。

ソーシャルメディア時代の新しいサッカーライター像


Mixi_logo_pc_large001_2mixi、その後に登場したTwitterなどはソーシャルネットワークと呼ばれ、様々な人と人がネットを介してつながることを可能にした。そして、それは企業にも注目され、マーケティングにも利用され始めた。企業と消費者が直接つながり、対話をする。それも日常的に。するとそこには、一般の広報活動などではなかなかできない「絆」が生まれてくるのである。そういうソーシャルメディア・マーケティングは、今広告業界で最も注目を集めるトピックの一つとなっている。

宇都宮氏は、mixiでも、Twitterでも、我われ一般のサポとわけ隔てをせずにつきあってくださって来た。それは言うまでもなく、サッカーライターとしてのマーケティングのためなどという邪な(笑)狙いではなく、先にも書いた生来の志向のためだろう。しかし結果として、そういうソーシャルメディア内では、サポと宇都宮氏の絆が生まれ、育ち、強固になっていった。

それは、サポと向き合う時の宇都宮氏の、真摯で公平な態度、そして温かい人柄によるものだった。私自身、Soccer Castに出演していただいたことを抜きにしても、宇都宮さんには非常にシンパシーを感じている。ソーシャルメディア・マーケティングを模索する企業に、その成功例として宇都宮氏を紹介したいぐらいである(笑)。

そして最近、宇都宮氏は「徹マガ」というメールマガジンを発刊された。ポスト・ワールドカップに向けて、あらたなサッカーメディアを考えるため、ということであるようだ。これは非常に興味深い、意義深い試みであるように思う

宇都宮氏自身が「「徹マガ」はポスト・ワールドカップのムーブメントである」の中で書かれているように、これからのネット時代にサッカーメディアがどこに行くのか、非常に鋭く問われているからだ。成功を心より祈りたい。

このメールマガジンも、これまで宇都宮氏が築いてきた、サポとの強い「絆」があってこそ、より意義深いものになっていると私は感じた。サッカーライター界のビッグネームである金子達仁氏は、スターである中田英寿選手(*2)との交流と、それを記述した記事を通して名を上げていった。いわば、トップから下に降りる形での成功だった、と思う。これに対し、宇都宮氏はまったく逆に、下(と言うと語弊があるが)から出発し、サポと交流を密にし、そこでできた「絆」をベースにして、新しいサッカーライターの形を世に示そうとしている、と思えたのだ。

(誤解のないように書くと、徹マガの読者のみなさんには、宇都宮氏の取材力や文章、見識を純粋に評価して加入されている方も多いと思う。宇都宮氏が「絆」に頼ってサッカーライター業を行っている、と言っているわけではないので念のため。逆に、「絆」を感じている私たちも、「ライターとしての」宇都宮氏を敬愛しているからこそ、ということも申し添えておきたい)

「サッカーライター論」というものは未だにそれほど整備されていないと思うが、もし後世そのようなものが書かれるとしたら、後藤健生、金子達仁の登場に続く、次なるエポックともなるような一つの新しいサッカーライターの形が生まれた、のではないか。冒頭に書いた、最近私が宇都宮氏に関して考えていたこととは、そういうことだった。

それが、ミカミ氏の指摘に、ビンと響いた、のである。

ゴリアテとダビデ


さて私は、宇都宮氏のスポーツナビ上の記事「ベスト16」との向き合い方の中の、

確かに、岡田監督に謝った方がよい人が業界内に存在することについては、異論はない。それはすなわち、戦術面とは一切関係のないところで人格攻撃をしたり、対案もないまま「岡田以外だったら誰でもいい」と解任を声高に叫んだり、さらには「3戦全敗した方が日本のため」などという理不尽な主張を展開していた人々である。

の部分を読んで、快哉を叫んだことは正直に告白しておきたい。これがミカミ氏の言うように金子達仁氏や杉山茂樹氏のことを指しているのかどうかはわからないが、日本がW杯で勝利しそれを寿いでいる時に、何とも理不尽な主張を繰り返していた彼らのことは、私も非常に不快に思っていたからだ。しかも彼らは(なぜか)スポーツ新聞やNumberなどの大メディアからは受けがよく、絶え間なく仕事があるようで、どこかに必ず書く場を得ている、いわば「権威」に見えていたからなおさらだった。

「われわれの代表たる宇都宮さんが、理不尽な『権威』に一矢を報いてくれた」

これがその時の私の快哉の中身であっただろう。ソーシャルメディアで交流を持ち、あるいはSoccercastに出演していただいたりしたことで、私は宇都宮氏と自分たちサポを知らず知らず同一視、とまでは言わないまでも「こちら側」の人だと思ってしまっていた。「こちら側」の人が「あちら側」を批判している。私としてはそれがごく自然で、すんなりと受け入れられることだったのである。

しかし、ミカミ氏はそこを問題視しているのだと思う。それが、この言葉につながるのだろう。

宇都宮さん、あなたはすでにファンやサポーターではないのです。 そしてそれの代表者でも代弁者でも決してない。

上記の「われわれの代表たる宇都宮さん」は、私が勝手に思っていたことで、宇都宮氏自身が自らそう持って任じていたり、そう考えているとは私は思わない。が、ミカミ氏にはそう見えた、読めた、ということのようだ。私はこれに、うーむと考え込まされてしまった。

文筆人の「覚悟」と謝罪


ただ、この文章を「同業者を批判するな」と読んでしまっては間違うと思う。それを言うならミカミ氏自身、ブログのエントリーで宇都宮氏を「批判」しているではないか。そうではなく、

その人間が、なぜ他の同業者に向かって「謝った方がよい」などと公の媒体を使って言えるのか、言ってしまうのか。

という部分にあるように、重要なのは「謝ったほうがよい」という言葉なのだろう。これについては、以下も参考になる。

(略)私は金子達仁さんや杉山茂樹さんに対して、自分の言説のことで「謝る必要はない」とも、逆に「謝った方がよい」とも言うつもりはありません。 それは人に言われずとも自分で判断することでしょうから。 そしてその結果も自分が負うのです。 そんなことはフリーランスの物書きとして文章を書いて食っている人間にとっては当然のことだし、皆さん、その覚悟があって仕事をやっているものでしょう。

つまり、「覚悟を決めて書いている文筆人が、自分の書いたものについて謝るか、謝らないかを決める、その責任はあくまでも彼自身のものだ」ということであり、「同じ文筆人であれば、ほかの文筆人の『覚悟』についてはそれぞれ不可侵のものとし、尊重すべきである」ということだと思う。

おそらく(これは私の解釈だが)、「こういう主張は理不尽だ」とか「人格攻撃はすべきではない」とか、「対案もない解任要求はおかしい」ということであれば、何も問題はないだろう。それはそれぞれのライターが反論を覚悟で書いているものだろうし、また再反論などもありえ、いくらでもディベートしあえることだ。しかし「謝罪」についてはそうではない。大げさに言えば「人として間違ったこと」をしたときにするのが謝罪であり、それをすべきか否かは、やはり本人の責任で判断することだ、というのがミカミ氏の主張だろう。

もちろんファンやサポーターが無責任に「謝罪せよ」というのはアリ、だと思う。我われは先に書いたような「覚悟」を持つ必要がないし、ライターの持つそれについて斟酌する必要もない。むしろ、ライターは我われ(読者)に最終的に「うける」「売れる」ことを目標(の一部)とし、そのために自分で「覚悟」を決めて、切磋琢磨していくものだ。謝らないことで読者が離れるならば、それもまた金子氏の責任、自分持ち、だということだ。

そして、ミカミ氏からみると、もうひとつのテーマの「JマスコットINTV企画」も含め、「宇都宮氏がそういうサッカーファン代表という意識でいるのではないか」「だからこそ『謝ったほうがよい』と書いたのではないか」という問題意識につながったのだろう。そしてその指摘に対し私は、先に書いたような「宇都宮徹壱論」を考えていたために、「あっ」と思わされたのだった。

青島と室井


もちろん先に書いたように、宇都宮さん自身が自らをサポーター代表ととらえてあの文章を書いたとは、私は思わない。また、宇都宮さん自身、ほかのサッカーライターに対して批判の文章をああいうメディアに書くにあたり、そうとうな「覚悟」を決めて書かれたということは、疑いないと思う。

したがって、ミカミ氏の「ほかの文筆人の『覚悟』を侵すべきではない」という主張には一理あるけれども、宇都宮さんがあれを書いた理由が「サポーター代表だと自分を思っているから」だろう、という部分は間違っていると思う(しまった宇都宮「さん」と書いてしまった。まあいいや)。

ただ私がと胸を突かれたのは、「私たち」の側の意識として、宇都宮さんを「こちら側」の人扱いして来すぎたのではなかったか、ということだった。だからあの文章を読んだ時に違和感がなかったのであり、私個人としては快哉を叫んでしまったのだと思う。

しかし、宇都宮さんは今年、「フットボールの犬―欧羅巴1999‐2009」でミズノスポーツライター賞を獲得された。これからますますメジャーになり、金子達仁氏や杉山茂樹氏ら、理不尽な権威である御大を打倒していってくれなくては困る存在である。2010年南アフリカ後の、これからまた激変するだろうサッカーライティング界をリードし、そして日本サッカー界そのものに良い変化を起こして行って欲しい存在である。そういう方に対し、私のスタンスはこのままでいいのだろうか?

いわば室井に対する青島の気持ちと言おうか。とまれ、ここに宇都宮さんのますますの活躍を祈念して、今回のエントリーを終わりたいと思う。

それではまた。

05:18 PM [メディア] | 固定リンク | コメント | トラックバック(1)|

October 11, 2005

ラトビア戦ヒデインタビュー

さて、ラトビア戦の試合自体はまだまだ見たいところもあるのだけど、もう一つ話題は中田英寿選手の試合後のインタビューでしょう。サッカーのある幸せでエルゲラさんがまとめてくださっているのでご参照ください(ページの下の方です)。

私も見ていましたが、中田選手の表情、言い方、それを読めないインタビュアーの拙さなどに思わず「あちゃー」と顔を覆ってしまいました(笑)。中田選手の言い方も社会人としてはいかがなものかと私なんかは思うのですが、あのインタビューでは無理もない。そう思っていたら、中田選手に対して「いかがなものか」メールを送った方もたくさんいらっしゃるようです。彼自身が自分のページでそれに触れて、ある意味反論しています。

中田選手の言っていることはもっともだと思います(ただ、もう一度言いますが「態度」においてはもう少し何とかなんないの?と私も思います)。日本のインタビュアーは、特にこういう場所での短時間のインタビューでは、ちょっと困った質問をすることが多いのも事実ですね。エルゲラさんのまとめを引用しながら(エルゲラさんありがとうございます)、どこが問題だったのかを少し読み解いて見ましょう。


■インタビュアーが言いたいことを言うスタイル

インタビュアー:「何か、ワールドカップ本番を思わせるような緊迫した雰囲気になりましたが、結果2対2でした(マイクを向ける)」

ここですでに、中田選手の言う「相手がきちんと考えて質問をしていなかったり、自分が聞きたい答えを導き出すためだけの質問」になっているのではないか。私は「ああ、不機嫌なヒデにこういう聞き方をするとなあ」と思いながら見ていた(笑)。

まず、「何か、ワールドカップ本番を思わせるような緊迫した雰囲気になりました」というのは記者の感想であって、中田の意見ではない。本当に中田選手の考えを聞きたいのなら、それを言う必要はない。邪推(笑)すれば、テレビ朝日の設定した「決意のヨーロッパ遠征」と同様、「この試合は意義があるんだ!!!」とテレビ朝日が強調したいだけにも聞こえる文言だ。

さらには「結果2対2でした」というのは質問になっていない。これこそ「で?」と聞きたくなるような投げかけだ。「そうですね」としか応えてもらえなくても仕方がないようなものだ。にもかかわらず、日本のインタビュアーは良くこれをやる。この部分がヒデメールでも「どう答えれば良いんだろう?」と言われているところだろう。

この一連の質問は、重要なのは前半であって、それが言いたいだけのものだったのではないか。どう答えるか迷うような、どう答えてもいいような質問は、それよりも質問に先立つ「インタビュアーの言いたいこと」を出したいだけの、商売のための考えから出たのではないか。

私はここで中田選手が「で?」というのではないかと冷や冷やした。しかし、中田選手は大人の対応(笑)を取る。どうこたえてもいい質問を、それなりに酌んで答えてあげたのだ。

質問は「2対2の結果でしたが、先制できていただけに残念です。追いつかれたのはなぜだと思いますか」ということですよね?

と脳内補足してあげ、

中田英選手:「いやまあ、やっぱり前半で取れるうちに得点を取らなくって、それがやっぱりこの結果につながったと思います」

という答えだ。私は「ちょっと偉いな」と思ったくらいである(笑)。


■対話になっていないインタビュー

しかし、この流れに潜む「中田選手が『仕方ないな』と思いながら補足して答えた」という部分にインタビュアーは気づかず、すでに今答えたことに対する質問(になっていない質問)を繰り返した。

イ:「前半かなり攻撃的にいい形もできていたと思うのですが」

これも「いい形もできていた」というのは記者の感想であって、それをただ投げかけられても困ってしまう。大体その前に「やっぱり前半で取れるうちに得点を取らなくって」とヒデが言っているのは、「いい形もできていたけど取れなかった」ということであって、この質問はただそれと同じことを言っているだけなのだ。この時の中田選手の「何言ってるのこの人?」という表情は、「今の、直前の答えを聞いていなかったの?」という戸惑いだったのだと思う。

この記者は「勉強していない」記者かどうかは分からない。サッカーに詳しいかどうかはこのインタビューからは不明だ。それよりも、むしろ用意してきたこと(ある意味勉強してきたこと)を愚直に言っただけなのではないだろうか。最初に「重要な試合だった」とヒデに言わせ(ないし自分が言ってしまい)、次に「前半の攻撃は良かった」とヒデに言わせ(ないし自分が言ってしまい)、最後に課題にふれて絞める、という風に、自分の中でストーリーができていたのだろう。

最初の質問でヒデがそれを「言ってしまったこと」がわからなかった。自分の目の前で言われたのにもかかわらずである。極端に言えば彼はヒデと「コミュニケーション」をとろうと思っていない。対話しようと思っていない。ただ自分の考えた流れどおりに何か言ってくれればいい、としか思っていないだろう。だからヒデの言ったことをきちんと理解しようとさえしないのだ。そこが中田選手には非常に不可解に映ったのだろう。

で、ヒデのあれがでてしまう(笑)。

中:「……はい、で、何でしょうか(笑)」

これに対し記者は、前の質問で省略した部分を言い直す。しかしそれも、最初に言ったことに屋上屋を重ねることにしかならなかった。

イ:「イメージ通りの攻撃というのは、随所にできていたと思われますか」

中:「まあ、前半は特に早いパスまわしからいい形ができたところまでは良かったんですけれども、まあそん中で決定力不足って言うのが、まだあいかわらずの課題としてやっぱり残ってるし、その結果が後半相手に勢いを与えたんじゃないかと思います」

やはり「イメージどおりの攻撃が随所にできていた」と言って欲しかったのだろうね。しかし中田選手は(さっきも言ったことだけど)と言いたげな顔をしながら、最初の答えを詳しく言いなおしただけだった。ここまで質問を重ねながら、話がまったく進展していないのもインタビュアー、中田選手ともにある意味すごい(笑)。


■そこまで意地悪せんでも(笑)

インタビューは守備面に移る。

イ:「随所にこうDFラインに下がって何かコミニケーションをとられてましたが、守備の面での課題、修正点というのは何かありましたか」

これも、「随所にこうDFラインに下がって何かコミニケーションをとられてました」ということが言いたかったんだろうね。でもそれを言ったんなら「そこで伝えられていたこと(のなかで一番重要なこと)はなんでしょうか?」と聞けばいいのに。

中:「多々…」

これはちょっと中田選手、意地悪だなと思う(笑)。ヒデメールでも「課題を挙げ始めたらきりがない」と言っているけれども、その中でも自分で重要と考える2、3個を話してあげることは難しいことじゃないだろう。この時点で相当不機嫌になっていたようで、でもそれを出さずにインタビューに答えることもできたんじゃないか。何よりもインタビューを聞いているファンのみんなも(というか私も)、「ヒデの考える課題の重要なポイント」は聞きたいと思っていたよ!

イ:「それは…今後…次のウクライナ戦に、持ち越しということですか」

残念、ここで「中で一番重要なものはどれだと思われますか」と聞けばよかったのにね。というか、次からはそう聞こう!(笑)


■もう局の都合の押し付けはやめよう

こういうTVでのインタビューは、時間内で終わることもインタビュアーに要求されることだろうと思う。そういう意味ではエルゲラさんが書かれているようなまっとうな質問は、選手もしっかり考えて答えなくてはならないし、答えも長くなりそうだ。そんなことを話されるよりも、記者が自分で考えたことを言ってしまい、選手には「そうですね」ぐらいにとどめてもらうほうが、時間が短縮できていいのだろう。

中村選手なんかはどんな質問にもしっかり考えて言葉を選んで話すので、大体放送時間をオーバーする。そうすると私たちは文句を言うのだ(笑)。今回は記者もそれを避けようとしたのかもしれない。しかし、それも放送局の都合である。角沢アナが「決意のヨーロッパ遠征」と繰り返すのと同じだ。

そこにあるのは「本当はどうでもいいサッカーを、俺たちが放送のテクニックで盛り上げて視聴率を取ってやるぜ!」というような姿勢ではないか。スタッフにサッカーを本当に好きな人はいるのだろうか?いるのなら、もうみんながそういう中継には飽き飽きしているのだということを、見つめなおしてもらえないだろうか?無理やりな煽りや盛り上げはいらない、ただピッチの上の真実を伝えてくれ。質問も、選手の考えをきちんと聞きだすことを考えてくれ。それが回りまわって、一番サッカーの魅力を伝え、ファンを増やし、あなたたち向けに言えば視聴率を取れるようにすることにつながるのだから。

最後に、でもヒデ、もう少し酌んで話してやってもバチは当たらないと思うよ(笑)。今度は「一番の課題は?」とか「一番の収穫は?」と聞かれると思うので、そこは答えてほしいな。

それではまた。

09:44 PM [メディア] | 固定リンク | コメント | トラックバック(9)|

August 15, 2005

「応援」と「煽り」は違うのだ!

日刊スポーツの永井孝昌記者がサイトのBLOGコーナーで、「内輪感」の心地悪さと題されたエントリーを書かれている。内容は、先日の東アジア選手権におけるテレビ朝日の実況や解説陣について、「あまりに内輪感が強すぎるのではないか」と批判するものだ。いわく

何の騒ぎですか。

 先の東アジア選手権、男女の試合とも久々にテレビで観戦したが、正直に言って試合に集中するどころではなかった。「代表の試合はテレビで見るもんじゃない」。そう思っていた理由が、何となく分かった気がする。

確かに、東アジア選手権の中継は騒がしかった。松木氏や大竹氏による熱心な応援&解説、進藤潤耶アナ、角沢照治アナによる絶叫系の、懸命に煽ろうとする低レベルの実況。試合自体の鬱憤がたまる展開ともあいまって、夏の夜の不快指数をさらに上げていたことは、我が家的にも間違いないことである。そういう意味では私は永井記者に同意するところも多い・・・かというと、NOである!

私は声を大にして言いたい、「煽りと応援は違うのだ!」と。

そして「解説者の『応援』はオッケーなのだ!」と。

以前にもこの件を、ダバディ氏が書いていたことがあって、私は掲示板上で反論したことがあるのだが、私は「日本代表の真剣勝負は日本中が応援するという前提でかまわない!」と思っている(どうもこういう話題になると、こちらまで絶叫系じゃないが、「!」マークをつけてしまう・笑)。

たとえば、名古屋に行けばけっこう名古屋グランパスの試合のTV中継がある。私が「いいねえ」と思うのは、名古屋向けの放送だから、実況も解説も明らかに名古屋を応援しているところだ。偏向している(笑)。でも、いいではないか。名古屋の人は名古屋人だから名古屋を応援する。名古屋のTVはそういう人たち向けだから、名古屋を応援する。何が悪い?

実地のスタジアムでもそうだ。アウェーチームの選手紹介はぼそぼそとやっておいて、ホームチームの選手の時だけ、DJが盛り上げる。いいねえ。

で、それと同じことを、日本代表の試合で日本の放送局がやってなぜいけないのだ?五輪やW杯予選では、いちいち冷静に、ネガティブめなことを言うBSよりも、多少うるさくても松木さんの解説の方にチャンネルを合わせてしまった。こちらが応援モードに入ってるのに、水をかけないで欲しいのだ。「今のシュートはうち方が全然ダメですね」なんて言う解説より、「よくシュートで終わった、これでいい!」っていう応援の方がいい。

まあ、親善試合で、のべつ幕なしそれでは困る。課題を探り、それを改善して欲しいと指摘するのは正しい。しかし、真剣勝負では「応援」でいいじゃないか。グランパスの場合と同じじゃないか。

昔、たぶん97年ワールドカップ予選、たぶんNHKの山本アナが、努めて冷静に実況していたけど、日本ボールのスローインの時、敵がなかなかボールをこっちに渡さない(自分ボールと勘違いした『振り』をして?)のに対し、「ニッポンボールです…ニッポンボールで・す…二・ッ・ポ・ン・ボ・-・ル・で・すっ!」と切れていて、笑ってしまったことがある。いいねえ。それでいいと思う。

もう一度言うが、「日本代表の真剣勝負は、日本中が応援するという前提でかまわない」と私は思う。だから、松木さんの過度な応援の解説も、大竹さんの、はっきり言って選手の親かお姉さんのような解説も、全然いいと思う。大体大竹さんは選手に身内感を抱く、親身になる理由がたっぷりとあるじゃないか。それがああなるのは、無理もない、かまわないことだと思う。

だから、

 サッカー中継を見ていて味わう心地悪さ。その元凶はきっと「内輪感」にある。興奮するのは当たり前。応援するのがコンセンサス。ちょっと油断すると「テレビの前の皆さんも力を貸してください」と呼びかけられちゃうトンチン感。「応援しなきゃ非国民」的な、乱暴な前提のもとに放送が進んでいくから、静かに試合を見たいと思うと疎外感すら覚える。

この部分に関しては、私は「それは違う」と言いたいのだ。「テレビの前の皆さんも力を貸してください」と呼びかけられたら、私はよろこんで力を貸すぞ、何もできないけど(笑)。それが「内輪感があってイヤだ」という人には申し訳ない。申し訳ないが、日本にいて日本代表の試合を見ているんだから、ある程度は仕方ないと思って欲しい。イングランドのTVでイングランド代表の試合を見たけど、似たようなものだったよ。

ただ、である。

以上はあくまでも「解説者が応援する」ことだけに限る。

「応援」と「煽り」は違うのだ。

私は、テレビ朝日の実況アナの、あの無理やり煽ろうとするスタイルが大嫌いである。事前に用意してきた決まりきったフレーズ、選手に勝手に煽りネームをつけて、毎回それを呼ばずには実況しないスタイル、実際のピッチの上のサッカーをまったく見れずに、いくつかのフレーズの連呼しかできない実況能力の低さ・・・・。今回の東アジア選手権でもまたそれをイヤというほど堪能させてもらった。だから、以下の部分にはかなり同感なのだ。

 注目度が低い大会だと、その色はさらに顕著になる。冒頭でちゃかすように書いたのは申し訳ないが、例えば完全に内輪になりきってしまっている解説だったり「内側」の視聴者を逃がすまいと必要以上に危機感をあおる実況だったり。日本代表戦の中継が時に40%、50%も視聴率を稼ぐ優良コンテンツに育ったことは、同時に20%では満足できないという焦りを生んでいるのかもしれない。それが無意味なテンションの高さにつながっているのなら、この国のサッカー文化のもろさ、根の浅さを痛感せざるを得ない。

先にも書いたように解説の部分は違うと思うが、それ以外は的を射ていると思う。テレ朝の「煽らんかな」の実況は、その向こうの商売が透けて見える。この大会を盛り上げて、視聴率を稼がなきゃ。どうせ視聴者はサッカーのことなんかわかってないから、俺が悲壮感を出して盛り上げてやらなきゃ。サッカーのわからんやつらに盛り上げるには、選手にキャッチフレーズをつけて、連呼しなきゃ。そうだ!今回はこれだ!「現役女子高生永里ッッッッッッッ!!!!!」それはすべて、局の商売のためなのだ。

それにくらべると、「応援」は、ちょっと、いやかなり純粋なものだ。松木さんも始めはテレ朝から「なるべくポジティブに、応援っぽくお願いします」とか言われているかもしれない。しれないが、あの怖いまでの熱狂振り(笑)は、それだけではないと思える。途中からは本当に無私に、こころから日本代表を応援していると思う。大竹さんは無論、完全にそうだ。それは計算抜きの「応援」だろうと思う。そして私はそれには共感するものだ。

テレビ局のアナウンサーが、ある種、視聴者を馬鹿にして「盛り上げよう」「煽ろう」とする実況は、商売のためのものである。しかし、解説者が思わずしてしまう「応援」は、それとは違う、無縁なものだと思う。無私といったら言い過ぎかもしれないが、私たちが普通にスタジアムで、テレビの前で応援するのと、一緒だと思う。言い過ぎついでにいえば「魂」を送っている、と思う。それでいいと思う。

われわれと同じ応援をしているだけなら、ギャラをもらっているプロとしてどうなんだ、という意見もあるかもしれない。でも、松木さんも大竹さんも、解説としてのある程度のレベルは一応クリアして、その上での応援になっている、とも言える。松木さんも、TVには映っていない選手の動き出しについて言及したりしていたし、大竹さんも、「これは練習でよくやっていたんですね」などと、ただの応援者では知りえない情報を提供してくれていたりする。特に、親善試合ではかなり解説的だ。

逆に、実況は「煽らんかな」が気に障るだけではなく、明白に「レベルが低かった」。選手の名前を言い間違える(それだけでも最低だが)だけでなく、完全にフレーズを間違えていることも多々あった。用意したフレーズを組み合わせているだけだからだろう。「日本は勝って帰るわけにはいきません!」などという噴飯ものの言葉が飛び出したりするのだ。「煽る」のはおいておいて、一回「目の前で起こっていることを過不足なく描写する」という、実況の基本中の基本の練習を、一年間くらいしてきたらどうか、といいたくなるくらいである。

さて、この項の結論は最初に書いた。「応援」と「煽り」は違う。真剣勝負での「応援」はいいと思うが、局が商売のために無理やり「煽ろう」としても、もう我われはついていかないよ。アナが煽ろうとして「○○選手は身長が○○センチしかありません!」と繰り返し、大竹さんと掘池さんが半ギレで「身長は関係ないですから!」「体の使い方が上手いですから!」とさえぎった。あのシーンがすべてだ。

サッカーの試合を中継する局、アナウンサーは、さすがにそろそろ、ちょっと考え方を変えてほしい。もう煽らなくていいよ。本業に帰っていいよ。それはあなたたちにとっても、本当は一番望ましい、業界に入ったときの初心に帰れってことなんじゃないかな、と思うのだが。

それではまた。

08:13 PM [メディア] | 固定リンク | コメント | トラックバック(5)|

April 09, 2004

「まっとうさ」

はてなダイアリーへのトラックバックの送り方がわからないのでただのリンクですが、織田さんの考察「ダバディさん岩佐さんのやりとり続き 」

この最後のところにある、

監督になってまだ三ヶ月しか経っていない大分のハン・ベルガー監督に15,981票入るということは、決してそういう人が少数派、1%ではなくなっているということだと思います。

おっしゃるとおりですねー。いやー最近のベルガー大分のサッカーはマイブームなのですけど(なんとか生で見たい)、同じように思っている人がけっこう多いということはうれしいなあと思いますね。

「まっとうさ」とはなにか?それはもちろん簡単ではないことですけど、「サッカーの本当の魅力」について、私たちが議論していくことでその叩き台を作っていけるといいな、それがネットの果たす役割の一つになるだろう、そういう感じですね。

私は個人的に、欧州のサッカー中継を見ていてスイッチング(画面の切り替え)に不満を覚えることがほとんどありません。あれをとりあえずは目指して欲しいのですけどねえ。そういう大まかなところから、意見が集まっていくといいなと思います。

01:38 PM [メディア] | 固定リンク | コメント | トラックバック(1)|

April 08, 2004

「深さ」と「まっとうさ」

反響があるとうれしいですね。いかん、BOLGが楽しくなってきた(笑)。

初めてトラックバックというものを送ってみました。アズぶログ:勝手に提案こちらで杏葉さんが、F1を例にとって書かれていることが、まさに私の言いたかったことです。しかも私よりわかりやすい_| ̄|○(笑)

そーたさん、そうですね、岩佐さんは愛情を持って語っておられると思います。だからこそ、反応したくなったのですね。ところで↓のタイトルは、岩佐さんの「ダバディに告ぐ」をもじったのですけれどイマイチでしたか_| ̄|○(笑)・・・トラックバック先やリンク先で「告ぐ」で表示されるとなんかスゴイ(笑)感じだったので、改題しました。いやーBLOGのタイトルって一人歩きするんですね。

さて、コメント欄への「レス」です。

・・・涙さんのおっしゃるとおり、岩佐さんのご意見が「大人」のものであることは論を待たないでしょう(私は学生というほどには若くないのですけれども・笑)。でも、「大人」ばっかりでもつまらないでしょう?(笑)私たちでそれを変えられるといいな、と思うのですけどね。

RYUさんとmasuda さんのおっしゃっていることは、私が「深さ」をもとめているとすると、おっしゃる通りだと思います。ただ私は「深さ」を求めているのではなくて、「まっとうさ」を求めているのですよ。それは見ている側が成熟していけば、何とか勝ち取っていけるのではないか。その成熟のために、CSやネットは少しずつでも貢献していくことができるのではないか、と思うのです。

先日のシンガポール戦、試合の映像は日本側が作ったのでしょうか?シンガポール側が作ったのでしょうか?私は情報を持っていませんが、なんとなくシンガポール側のような気がしません?というのは、「今のはオフサイドだったのかどうか」という微妙な判定のシーンを、何度も映像を巻き戻しながらぐりぐりと(セリエA中継で見慣れたように)見せてくれる中継が、ちょっと日本風味ではないな、と思われたのです。

もしシンガポール側だとすると、サッカー人気が高く、欧州の中継を見慣れたシンガポールのファンの日常的な要求がああいう中継を生んでいるのだということだと思いますし、もし日本側が作ったのだとすると、日本の中継担当者さんたちも、「なかなかじゃん」と私は思います。つまり、どちらであったとしても、受けとる側の「成熟」が、作られるものに影響を与えているということではないか。(続きます)

12:42 PM [メディア] | 固定リンク | コメント | トラックバック(1)|

岩佐徹さんに捧ぐ

・・・いや、「捧ぐ」ってほど大上段に構える気もないのだけれど(笑)。

スポーツ実況界の大御所、岩佐徹さんが、過日のダバディさんの意見に対して反論をされています。岩佐さんは私とCAMPERのシューズが好きというところで共通しており、たぶんいい人だと思われます(笑)。

さて、このダバディさんの意見は、主にナショナリズム関連の文脈で大きな波紋をBLOG界に広げたわけですが(その話は今日はしない)、岩佐さんはそれとは違う切り口でダバディさんの意見に切り込んでいます。ダバディさんは、日本のサッカーが進歩するためにはまず環境を変えなくては、と説き、

環境というと、まずいつも訴えるメディアの成熟、メディアが本当にサッカー文化を抱くように、切り口、アプローチを変えないといけない。居酒屋っぽい戦術論や監督論、ナショナリズムや「大衆のあおり」、バラエティっぽいサッカー番組のつくりをやめよう。本当のサッカーを語ろう! 短期間で視聴率が落ちても、「全大衆」を相手にしなくても、長期間で考えろ! 子供のサッカー情熱、文化、その火をつけろ!

と叫んでいます。これに対し、岩佐さんは

気持ちは分かるけど、君が求める、スポーツ新聞や民放テレビの改良、向上、進歩など、100年かかっても実現しないと思いますよ。

と、非常に冷静(?)な、ある意味冷水をぶっ掛ける(笑)ようなことをおっしゃっています。

私は、どちらかと言えばダバディさんの意見のほうに賛同する立場です。今よりもサッカー報道にもっともっと向上して欲しいと思っています。「戦術論やナショナリズム」が「本当のサッカーではない」とするダバディさんの意見の一部には私は疑問を持っているのですが、それ以外の「大衆を煽る」ことや、バラエティっぽい番組のつくりを止めよう、というのはまことに正論であり、まさにそっちの方向に進んで欲しいと思っています。

ところで岩佐さんの文章をよく読んでみると、問題意識はダバディさんや私が思っていることと変わらないことがわかります。

日本のマスメディアは確かに未成熟だと思います。ジャーナリズムとビジネスをハカリにかけるとき、どうしても、ビジネスに傾くし、売るためだったら、「なんでもあり」です。

これはもう、そういう現場に長いこと身を置いてきた人の実感で、ダバディさんや私が問題だと思っていることを指摘しているのだと言えるでしょう。

岩佐さんとダバディさんの最大の違いは、「それを正すことが可能かどうか」という点です。ダバディさんは「日本のサッカー文化のために、革命を。」と、それを変える事が可能であるという立場に立ち、岩佐さんは「100年かかっても実現しない」と言っているわけです。

かつて私は、「サッカー批評」の半田編集長の深いものを求めている読者って、全体の1パーセントもいないわけじゃないですか。という発言に対し、「おーい服屋さーん」というコラムを書いて反論したことがありました。

単純にいえば、現在提供されているようなカタチでの「深いもの」=私やダバディさんの求めるようなもの、を求める人は、全体の1%しかないかもしれないけれども、そうした深いものを「読みやすく、魅力的に」していったものは、この2002W杯後の日本では、10%、20%という受容層があるだろう、ということです。

上記は活字媒体での話ですが、同じことが電波媒体でも言えると私は思っています。ただし、それは簡単には実現しないでしょう。現在のTVの視聴率競争は、現場が血反吐を吐くほど(悲)厳しいと聞きます。そのような中で、ダバディさんが言うように、「短期間で視聴率が落ちても、『全大衆』を相手にしなくても」という番組作りをするのは至難の業です。民放では、ほぼ、無理といってもいい。同じことが毎日の部数で即座に出来、不出来が判断されてしまうスポーツ新聞にもいえます。岩佐さんのおっしゃっているのは、こちらの側面ですね。

しかし、私はこうした状況は変える事ができると思っています。というのは、そうした番組作り、紙面づくりを支えているものは「その方が売れる」という「思い込み」に過ぎないからです。岩佐さんも「彼らは『それこそが大衆の望んでいるもの』と勝手に決め込んでいるのだから。」とおっしゃっていますね。まさにそのとおりなのです。

根拠のない「思い込み」は、実証によって覆されえます。彼らが思い込んでいる手法よりも、もっと他のやり方が、やってみれば、あるいはやり続けていけば、多くの支持を得られる。そういう成功例を多く積み上げていくことが出来れば、民放の現場、スポーツ紙の現場にいる人たち、そのトップの「思い込み」も変えていくことが出来る。

幸いにして、私たちはCSやWebという新時代(もはやそれほど新しくもないですが・笑)のツールを持っています。CSでは世界の放送技術で作られたサッカー中継を見ることができ、好きな人にしっかり伝わればいい、という実況を聞くことが出来ます。Webでは、多種多様な発信元から、さまざまな深さ、切り口のニュース、考察を読むことが出来ます。それらは今はまだそれほど多くない好事家のものであるでしょうけれども、そこで現場のトップに注目させるだけの結果を出すことが出来れば、話は変わってきます。

今はまだ出来ない。出来ていない。現場が現場で変わろうとしてもなかなか簡単なことではない。それならば必要なことは、一つは外の実績、「おい、あれ、いいらしいぞ、俺たちもやろうや」といえるようなものを積み上げていく。もう一つは、外圧、つまり私たちの「声」です。私たちは本当はこういうのが見たいんだよ、こういうのが読みたいんだよ。それをどんどん彼らに届けていく。それが少数ではないことを知らしめていく。

その二つが地道に進んでいけば、いえいえ岩佐さん、100年はかからないですよ。たぶん私の目の黒いうちに(笑)、それは実現すると思いますよ。そのためにも、ダバディさんが声を上げてくれたことはうれしいことです。そして私たちもこれから、声を上げ続けていこうと思います。

100年かかるかどうか、見ていてください。

それではまた。

02:49 AM [メディア] | 固定リンク | コメント | トラックバック(12)|