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August 14, 2010

書評: 木崎伸也 「世界は日本サッカーをどう報じたか」

そもそもなぜ、我われは「世界はどう報じたか」を気にしなければならないのだろうか?

いきなりこの疑問からスタートしてみよう。本書のかなり早いあたりにその答えは示される。

勝った、負けたと一喜一憂するだけに留まっていたら、日本サッカーは伸びていかない。何も変わらないのである。

日本のサッカーは発展途上の途中で、まだ美学と呼べるようなサッカーのスタイルは残念ながら確立されていない。日本のスポーツ報道にも、同じく成長していくことが求められる。
だからまだ今は、外からの視点が必要だ(43ページ)

「美学」である。

この言葉は、「はじめに」の中にも出現する。

柔道の「一本で勝つ」という文化を見れば分かるように、日本は勝ちにこだわると同時に、どのように勝つかという美学やスタイルにも思いを巡らせることができる国のはずだ。

ならばサッカーにも、美学を求めるべきではないか。

ここに私は、「サッカーファン」と「サポーター」の抜きがたい差をみるのである。


今大会のオランダをどう捉えるか


第1章のタイトルはそのものズバリ「なぜ、世界の報道を見るか?」というものだが、その冒頭に、74年ワールドカップのオランダのエピソードが出てくる。クライフを擁したこの時のオランダが、敗退はしたが世界中から讃えられたことで、木崎氏は以下のように言う。

つまるところ、サッカーの世界一を決めるワールドカップというのは、結果だけがすべての大会ではない。その歴史に名を刻むには、どう勝って、どう引き分けて、どう負けて、何を見せられたか、ということも問われるのだ。

これは、こういうテーマのときに非常によく出てくるテーゼである。しかし、はたしてそれは真実なのか。

非常によく符合する報道がある。

クライフ氏、母国オランダを痛烈に批判

 元オランダ代表の伝説的選手、ヨハン・クライフ氏が13日付スペイン紙エル・ペリオディコのコラムで、南アW杯での母国代表を強く非難した。「オランダのスタイルは醜く低俗。スペインを動揺させるために、汚いプレーを展開した」と9枚のイエローカードに表れた相手の長所を消すためだけのラフプレーを疑問視した。

今大会のオランダは、かつてのイメージのオランダではなかった。

先制していてもリスクを取って攻撃し続ける、ある種「勝敗よりもスタイルにこだわる」ようなチームではなくなっていた。日本戦でもみられたように、先制すれば引いて守ってカウンターを狙い、スペイン戦では守備を重視しつつファウルすれすれのチャージでスペインのパス回しを分断しようとする。強いには強いが、かつてのオランダの持っていた「スタイル」や「美学」からは離れてしまったようなチームだった。

特に決勝戦での戦いを、「美学の権化」クライフが酷評するのも当然だろう。

しかし、クライフ以外のオランダ国民はどうだったか。

オランダ“優勝運河パレード”計画 F16戦闘機も出動だ

優勝したみたい ロッベン「オランダファンは世界で一番だ」

スポーツ新聞の報道だから割り引いてみるにしても、どうやらそれなりに歓迎されていたようである。木崎氏の言う「美学」があるはずのオランダ国民でも、W杯決勝で「負けた」準優勝、それもクライフの酷評するようなラフプレイ連発の結果の準優勝が、かなり嬉しかったようなのである。

これはどうしたことだろう。

「W杯は結果だけがすべての大会ではない」というテーゼは、正しいのだろうか?


当事者か、それ以外か。

結論から言えば、正しくもあり、正しくもない、だろう。そして、その差を分けるのは、一つには当事者か、否か、ということではないだろうか。

かつてのオランダのスタイルや、スペインのそれが評判がよく、愛されていたというのは、当のオランダやスペインの国民にもそうだが、それに数倍する数の、当事者ではない「ファン」の間で、ではないだろうか。

「W杯の歴史に名を刻めるかどうか」というのは、当事国の国民だけではなく、その大会を見つめた世界中の多くの人々の記憶に残る、という意味だろう。「当事者以外」にとっては、それはエンターテイメント性の高い、「美学」のあるサッカーのほうが見て楽しいだろう。当然のことだ。

そして日本は長いこと、W杯の「当事者」になれないで来たのである。だから、そういう見方が根づいてしまった、のではないか。

しかし、W杯に出場する「当事者」となってみれば、「W杯ではまず何よりも結果を」となる。「サポーター」とはそういうものだろう。チームに対する「当事者」なのだ。もちろん、中長期的に見て内容を求めるサポもいるだろうが、それにしても眼の前に試合があれば「まず結果を」となるのが「サポーター」=「当事者」だろう。今回のオランダ国民の歓喜も、当事者ゆえのもの、なのだと私には思える。

「当事者にとってはまず結果を。外から見ているファンにとってはエンターテイメント性を」

これが結論なのではないだろうか。

さて、ここで反証が出てくる。「かつてのオランダはどうだったか?」「スペインは?」「ブラジルはどうか?」


結果以外を問う資格


ご存知のようにブラジルも、敗れはしても82年の「黄金のカルテット」が絶賛され、94年のように優勝はしても守備的なチームは批判されるようなお国柄である。かの国の国民も「W杯は結果だけがすべての大会ではない」と思っているだろう。

だが我々は彼らと同じことを考えるべきだろうか?

例えば今大会、スイスは非常に堅い守備をベースに、堅守速攻で勝ち上がってきた。パラグアイもその系譜に入るだろう。彼ら、欧州、南米の中堅の国々は、W杯予選でそれぞれ超ビッグチームと伍して戦っていかなくてはならないために、そういうスタイルが染み付いている。さて、彼らのサッカーに対して我われは「W杯は結果だけがすべての大会ではない」と非難しなくてはならないのだろうか?

そんなことはまったくあるまい。

私は、「W杯は結果だけがすべての大会ではない」と考えるには、資格がいると思う。

「W杯に参加することは当たり前」「W杯でGLを突破することも当たり前」「その上で、決勝トーナメントで勝利することが相当程度期待される」ような国、サッカー大国、サッカー強国と呼ばれるような国。つまり「結果」を出したことがあり、それが当然のように要求されるチームであって初めて、結果「だけ」ではないと言いえるのだと思う。

日本はブラジルでも、オランダでも、スペインでもない。スイスや、パラグアイのレベルに、今大会でようやく肩を並べたか、まだ早いか、という段階だろう。そのような国が「美学」を口にし、勝つことよりも、観戦してくれる「当事者以外」を魅了する、退屈ではないサッカーを目指す。木崎氏はそういうことを要求しているのだ。

はたしてそれはロジカルなことだろうか?


「美学」なんかいらない


本書の出発点は「岡田日本は結果を残したが、内容的には今後の指針とすべきなのかどうか?」という問題設定だろう。そしてその「内容」の部分を、多くの海外のサッカー関係者の意見を通じて洗い出していこうとするものだ。その狙い自体は理解できるし、興味をそそられる部分もある。また実際に海外の識者の発言そのものの中には、なかなか示唆に富むものもある。

しかし、それらの発言をまとめ、読み解いていく木崎氏のスタンドポイントが、上記のような「日本は美学を持つべきだ」からスタートしているため、私にはどうにも違和感のあるものになっている。終章には、次のような一説がある。

「枠内シュート率」の高さをさらに生かすためにも、サッカー大国が決してやらないような“禁じ手”ではなく、もっと勇気を持って攻撃的に行くべきだった。

まあ本書は新書版でもあり、一般の読者にわかりやすくするためではあろうが、これでは、世の中には「サッカー大国」と「弱者」の2者しかいないような書き方ではないか。

しかし、欧州や南米の中堅レベルの国に、基本的に守備を固めてカウンターという戦い方をするところが多いということを無視しているのは、やはりおかしいだろう。日本がスイスやパラグアイに比べて突出して強いというわけではないのだから、彼らのようなやり方を採用することも、“禁じ手”などではないはずだ(それを今後も採用すべきかどうかの議論は、ここでは深入りしないが)。

本書であげられた「日本代表の問題点」の中には、国内外の多様な意見をベースにした意義のある提言もあると思うのだが、肝心の岡田日本に対する評価のところで、上記のように分析が精度を欠いているために、全体としてはちょっと残念なできになっていると思う。

ただ・・・。


何という皮肉!


本書中の白眉は、166、167ページに現れる、(日本通のオランダ人記者だという)テオ・ライゼナールとヒディンクの提言である。彼らはなんとも興味深いことに、本書の存在意義を真っ向から否定するのだ。しかし、木崎氏は本書の存在意義を否定されていることには触れず、そこから得られる教訓を「パラグアイ戦で後一歩が足りなかった理由」としてあげている。ここで言われている「足りなかった理由」は、私にはなかなかうなずかされることだった。この部分だけでも、本書を一読する意義はあると思う。

日本には、明治以来連綿と「海外により進んだものがあるので、その視点から日本を批判する」というスタイルの評論家の存在がある。「坂の上の雲」スタイルとでも言おうか。日本が諸外国に追いつき、追い越せと走り続けたこの100年間の、精神的バックボーンに彼らはなってきた。サッカーは、経済や文化の諸ジャンルから遅れて、この20年ほど急速に発展してきたため、ちょうどまさに今、そういう評論家たちが跋扈している状態にある、と私は思っている。

金子達仁氏や、杉山茂樹氏らは、「海外の進んだサッカーのエッセンスを紹介する」というスタイルで、日本のサッカー界においてそういう役割を担ってきた。90年代(後半)、00年代を通じて、彼らの存在はそれなりに時代の要請だったのだろうと、私は思う。坂の上を目指して進む日本サッカーには、周りで「坂の上はあっちだ」とはやし立てる存在も、必要だったのだろう。そのわかりやすさは、サッカー界以外からも認められた。

しかし、本書中でいみじくもテオ・ライゼナールとヒディンクの提言が、日本はもはやそれから脱却すべき時だということを、高々と告げている。いみじくも、いみじくも!である。木崎氏は、金子達仁氏のスポーツライター塾の卒業生である。その彼が、自身の著書の中で、「そういう存在はもういらない」「そういうものを必要としていては、日本は強くなれない」という結論を出してしまうとは、なんと皮肉なことだろう!

本書は、おそらく著者自身も気づいていないこの皮肉な結論部分において、かなり、かなり価値のある一冊となっていると思う。それにしても木崎氏は、金子氏から受け継いだこの「坂の上の雲」スタイルを今後も続けていくのだろうか?それとも、テオ・ライゼナールやヒディンクの提言に従って、また別のスタイルを模索するのだろうか?余計なおせっかいではあるが、気になるところである。

それではまた。

09:04 PM [メディア] | 固定リンク

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» 続・サッカーライターについて from 川の果ての更に果てに
一昨日唐突にサッカーライターに関するブログを書いたのは、Twitterで中々面白いことを書かれているKet Seeさんの話に乗ってみたのですが、それ以降もちょくちょく面白い流れが続いているようでして、本人のブログの中にもありましたので、更に乗ってみることにしました。 書評: 木崎伸也 「世界は日本サッカーをどう報じたか」(KET SEE BLOG) 書評については本そのものを読んでおらず、また後述しますとおりあまり読む気もないので譲ります。 興味のある方は読んでいただいて、以下の私の... 続きを読む

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