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January 19, 2007

敗因の先にあるもの

今回は、「イビチャ・オシムの真実」について、およびそこから考えたことについて書きたいと思います。というのは、盟友のエルゲラさんをはじめ、各所(1) (2) (3)で「イビチャ・オシムの真実」の訳者あとがきに触れられていて、その箇所が気になっていた私も、やはり書いておかなくては、という気になったものです。(以下コラム文体)


オシム思考のルーツがわかる本

まずはこの本について軽く触れておくと、オシム監督がシュトゥルム・グラーツの監督をしている時代に、ゲラルト・エンツィンガー、トム・ホーファーの二人のジャーナリストによりまとめられた自伝を翻訳したものだ。ヴァスティッチやプロシネツキをはじめ多数の証言もあるが、基本的にはオシム監督本人の談話が中心となっており、彼の半生、そしてサッカー的な考え方の「ルーツ」を知ることができる。

読んでいるとこれまで聞いたオシム監督の言葉を思い起こし、「ああ、あそこでこう言ったのは、このような経験が元になっているんだな」と納得させられる箇所がそこかしこに出てくる。多くの人が感銘を受ける「オシム語録」だけではなく、メディアに対する考え方や、ドイツW杯での日本のパフォーマンスに対するオシム監督の評など、さまざまな考え方のベースはこの時代にあるんだな、とわかる、そういう本である。

一つ難を言えば、翻訳なので文章がちょっと硬い。たぶん訳者の問題というよりは、実際にそういう硬さで読まれることを想定した本なのだろうと思うが、ややとっつきにくい印象を与えるのも事実。ただ、監督本人があまりとっつきやすい人ではないし(笑)、そこも彼らしいではないか、と思え、楽しめる人にはお奨めできる。

日本語版にあたり、新たに原作者によって「ジェフ、日本代表監督時代2003~」が書き起こされているのも楽しいところ。

サッカー監督にとって日本で仕事することほど素晴らしいことはない!24時間サッカー漬けが可能なので、監督の立場からすればまさに楽園である

など、泣ける言葉も多い。以下、おいしいところは少しエルゲラさんのところで書き起こされているので参照されたい。私としては、「アジアカップで欧州組を招集するべきか否か」という問題の答えが、この中に書かれているのには驚かされた。やはり相当きちんと考えを持って招集する/しないを考えているのだな、と。

これを読むと、試合後の会見では、やはり記者との丁々発止のやり取りでもあり、あまり本音を言っていないのだろうと思われる。このように文章としてまとまったものの方が、彼の考えをしっかり理解するにはよいのだろう。もっとも、「自分の言葉に縛られるのは嫌い」な監督であるから、今後どうなるかは予断を許さないが。


ストイックな戦う男達の集団ではなくて

さて、冒頭に書いた訳者あとがきのことなのだが、本書の訳者は「平 陽子」という方だ。彼女はドイツ、ボンに在住しておられ、2006ワールドカップ期間中、日本代表宿舎で仕事をされていたとのこと。そして、そのときの体験をあとがきに書かれているのだ。その言葉が私にはショックだった。

ボン合宿中に私が垣間見たものは「ストイックな戦う男達の集団」ではなく、部屋のテレビに日本製ゲーム機が接続できないから困るとか、ドイツの魚は臭みがあるから食べられないとか、「豊かな日本で何の不自由もなく育った若者」そのものでした。

また、宿舎に詰めていた警備員がある時、「日本人というのは闘争心あふれる立派な国民だと思っていたのに、試合を見たら全然違うじゃないか!負けて宿舎に戻ってきてもヘラヘラ笑っているし、朝方まで部屋で騒いだりしているし、一体どうなっているんだ?」と私に率直な疑問をぶつけてきました。彼は、スイスとのプレーオフに負けてワールドカップ出場を逃したトルコからの移民でした。

これはもちろん、彼女の目で見た一つの真実に過ぎないから、過剰に反応することもないとは思う。実際に選手に取材してみたら、「そんなことはない!」という反論が返ってくるかもしれないし。ただ、これまで各所からもれ聞こえてきた大会中のチームの様子や、あるいは大住氏が「無責任とモラルの低さ、これが日本代表か」と嘆いた、2004年のアジア1次予選直前の親善試合イラク戦、さらには、その周辺でいわゆる「無断外出事件」を起こした選手達、といったものを思い起こしてみると、程度の差こそあれ、「ああ、その通りなのだろうな」と思わされずにはおれない。

平氏は、あとがきの後段で

憂えるべきは、「フォワードの決定力不足」云々より、強靭な精神力を持った若者を輩出できない社会環境です。ジーコ・ジャパンの敗因を、メンバーや戦術レベルの問題に括るのではなく、メンタルの問題=日本社会全体の課題と受け止めることはできないでしょうか。

としている。私はメンバーや戦術レベル、そしてメンタルコンディション管理も含めた「チーム・マネジメント」も非常に大きなウェイトを占めてるということを指摘した上で、彼女のこの問題提起には同意したいと思う。ドイツでの「敗因」は、監督だけでもなく、選手だけでもなく、日本全体の問題なのだ、と。


豊かな社会では強靭な精神は育たない?

Image007この原因はどこにあるのだろうか?日本社会がいわゆる「飽食」をし、均質に豊かになったからだろうか。そう言われてしまうと、われわれはサッカーに勝つためには貧しくならなくてはならなくなってしまう(笑)。ただ、もしかしたら、その通りなのかもしれない。世界どこでも、貧富の格差のある国で、下層階級から多くの有名選手が輩出されていることは偶然ではあるまい。向上心、戦う姿勢などは、そういう場合には自然と身につくことでもあるだろう。

日本は今後、格差社会へと近づいていくと言われている。では今後、もしかするとサッカーが強くなるかもしれない?いやいや、そんなことを期待するのはおかしいだろう。今のままの豊かさでも、そういった強靭な精神力を持った若者を輩出することを考えなくてはならない。今のままではそれは不可能なことなのか?いや、私はそうは思わない。

簡単なことだ。世界で通用する野球選手を見てみればよい。野球は打席ではピッチャーとバッターの1vs1、サッカーよりもずっと個人競技の側面があるスポーツではないか。その世界で日本人の若者が通用しているのはなぜなのか?マラソンでもそうであるし、水泳でも、フィギュアスケートでもそうだろう。柔道だってそうではないか。日本の社会が原因で、強靭な精神力を持った若者を生み出すことができない、と決める必要はないのではないか。

ではなぜ、サッカー日本代表の選手達は、平氏の目には「強靭な精神力を持った若者」には映らなかったのだろうか?それには私は二つの理由があると考える。一つはコマーシャリズム、そしてもう一つはナショナリズムである。


肥大した「スターシステム」

コマーシャリズムに関しては言わずもがなであろう。以前からそれはあったが、この4年間は特に「代表バブル」が躍進、肥大した時代でもあった。代表の中心選手にはいくつものCM契約が舞い込み、日本では誰もが彼らの顔を知った大スターとなった。代表戦は常に、有名選手の顔を見に来た観客で満員となり、普段はサッカーを見ない層でも、話の種に、物見遊山で、接待として、デートコースとしてスタジアムを埋める。その結果、本来は世界レベルで見ればまだまだの選手が、日本では持ち上げられ、下にもおかぬ扱いを受けるのだ。

木村元彦氏に、日本の放送局のスタッフは述懐したらしい。

ミックスゾーンで無視して素通りする、きちんと自分の言葉で話そうとしない選手に対しても、広報に食ってかかるだけで本人に大人の態度で諭そうとしなかった。

宇都宮鉄壱氏も、選手のミックスゾーンでの振舞いについてこう書いている

 これまで、ぶ然としたままミックスゾーンを強行突破していく選手に対して、私のみならず少なからずの同業者が、何とも苦々しい思いを抱いていた。「すみません、今日は勘弁してください」という一言でもあれば、まだこちらも納得できるのだが、それすらもない。「メディアにしゃべらないのは、格好いいこと」と勘違いしているような選手が、ごくごく少数派ながらも存在していたことは、実に残念であった。

どうだろうか、何か今回の宿舎での振る舞いと、似た匂いを感じないだろうか?誤解しないで欲しいが、私は選手個人を責めているわけではない。構造として、日本のメディア、広告ビジネス、そしてこの4年間には協会にも、「スターシステム」が蔓延し、それが選手達に悪影響を及ぼすだろうことは以前から指摘されてきた。世界レベルではまだ何も成し遂げていない選手達が、ちやほやされ、メディアや昵懇のライターから「きっと世界ベスト4にいける!」などと持ち上げられ続けていたらどうなるのか。平氏はそれを宿舎での振る舞いに見たのではないか。


ナショナリズムの希薄な私達

さて、もう一つはナショナリズムである。これは非常に微妙な話題だろう。私は政治的にどうこう言おうと思っているのではない。それはこのBLOGのテーマではない(笑)。ただ、サッカーはそれと密接に関係し、世界の多くの代表選手は「国を代表している」という意識を強く持ち、戦っているということは事実だと思う。だからこそ、W杯はあれほどの規模の「お祭り」となるのであるし、サポーターの「後押し」が選手の力にもなるのだろう。そして、言うまでもないが日本の若者達にその意識は希薄だ。

例えば、韓国代表の選手達は、それをよく体現する事例と言える。日本よりも強く国家意識、民族意識を持ち、だからこそ真っ赤に染まったスタジアムでの「テーハミング!」が強力に選手の力になる(個人的にはあの光景は、あまり好きではないが)。日本でも、代表サポーターの力は選手の後押しになっていると思いたいのだが、宮本が言うように、日本チームは「ホーム・ディスアドバンテージ」を感じるくらいであって、少なくとも韓国代表の得ている力とはだいぶん違うのではないだろうか(クラブレベルでの話は別だが)。

日本の若者には(若者だけではないが)、「国家意識」は希薄だ。そういう教育で育っているし、社会全体の風潮もそうであろう(私はそれがいいとも悪いとも言わない)。したがって「日本を代表して戦っている」という意識も希薄にならざるをえない。サポーターの後押しをそのまま力に変えられる選手としては、代表レベルではカズやゴンが最後なのではないだろうか?2002年のロシア戦、終盤でゴンが投入されたのは、横浜スタジアムの観衆の力をピッチに注ぎ込むため、という側面も大きいだろう。

それは彼ら二人がちょっと「特別」だから、でもあるが、やはり彼らが「黎明期を背負っていた」からでもあるだろう。日本サッカーのプロ化の初期には、「日本のために」は難しくても「日本サッカーのために」と考え、行動できる選手達がたくさんいたのだと思う。それは今のなでしこジャパンの置かれている状況とも似ているだろう。また野球選手が、WBCにおいて「日本野球のために」と一体になったことも近いのかもしれない。しかし、日本サッカーはもう黎明期ではない。


「私達」がいかに勝利を希求するか

98年までの日本代表には、初出場という「悲願」があった。「出場して日本サッカーを盛り上げなくては」という問題意識があった。今はそれがなくなってしまっている。そのことが、「日本サッカーのために」という力を沸き立たせにくくしているのだろう。金子達仁氏は「敗因と」の中で、「そうした目標設定がなかったこと」こそ、06年のワールドカップの日本代表の闘いが私達の胸を打たなかった原因だ、としている。では、協会が「ベスト16が目標です」と宣言しておけば、それは解決できたのだろうか?

そうではないだろう。上記の時代は初出場が「ファン、サポも含めた日本サッカー界全体のコンセンサス」だったからこそ、選手がそれを体で感じることができたのだ。協会が「ベスト16が目標です」と口で言って、それがコンセンサスになりえるのか?私達全体が「W杯で本気で勝ってほしい」と思う、心から願うことがないと、そうはならないだろう。「私達」というのはコアなサポのことだけではない。日本全体が、という意味だ。

1998年の時から、メディアの罪は大きい。「やったぜ岡ちゃん、1勝1敗1分いける!」「トルコは弱い、ベスト8見えた!」「自由にすれば、ベスト4も手が届く!」代表バブルを拡大させるための、自分達の力を省みない煽りが、日本全体を勘違いさせている。まずはここを正すことだろう。そのためには一回、「代表バブル」を消滅させることが必要だと、個人的には思う。代表のスタジアムがデートコースになっている現状では、「なんか、勝ってくれるといいなあ」以上のものにはならないだろう。

本来的には「歴史」が必要なのだと思う。何度挑戦しても跳ね返され続けるような、そうした苦闘の歴史があってこそ、そこでの1勝を、心から願うようになるのだろう。あるいは非常に大局的に考えるならば一度(考えたくもないのだが)、W杯に出られない、というようなショックも必要かもしれない。失ってはじめて、人はそのものの価値を知る、という。06年までは、日本がW杯に出られないと日本サッカーの火が消える、という心配があったが、ここまでJリーグが根付けばもう大丈夫だろう。


長期的取り組みと「チーム・マネジメント」

結論を言えば、まずはコマーシャリズムに汚染された「代表バブル」による勘違いを正す、正常化すること。そして、日本人全体がW杯での勝利を心から願い、その価値を重んじること(貧乏になることや、今以上にナショナリスティックな日本になることは、とりあえず選択肢から外す)。後者には時間が必要だが、前者はオシム監督が手をつけ始めていることでもある。前掲、スポナビでの宇都宮さんの記事にもあったが、「スターシステム」がいかにチームに害を与えるかを知り抜いている監督によって、代表の環境は「正常化」されつつある。

また、オシム監督は外出禁止、サンダル履き禁止、移動中の携帯、ゲーム禁止などを打ち出しているという。欧州の監督にはピッチ外でも規律を重んじる監督は少なくない(例えば元大分ベルガー監督)から、これが日本の若者の現状を観察してのことかどうかわからない。が、少なくとも、平氏の観察したようなチームにしないためには正しい方策の一つと思える。さらには、厳しい環境にあえて触れさせメンタルを養うためか、シェフ帯同禁止や移動用のチャーター便の廃止などを打ち出している。そういえばナイジェリアワールドユースの時も、現地のものを食べるように指導した監督がいた。

これらの取り組みを見ていると、「現状の選手でも、やり方によっては『平氏の観察したようなチーム』にしない」ことは不可能ではないように思える。少なくとも、その方向へ向かう「チーム・マネジメント」を採ることは可能であろう。中長期的な取り組みによって「豊かな社会からでも、強靭な精神を持ったサッカー選手を産む」ようにすることは必要なことだ。と同時に、現状の選手達を、そういう戦う集団に鍛え上げていくこと、そのためにさまざまな手段を講じていくこともまた、必要なのだろうと思う。

オシム監督の取り組みが、奏功すること、そして日本代表がまた「闘う集団」になっていくことを、願ってやまない。

それではまた。

04:09 PM [2006総括] | 固定リンク

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