« December 2006 | トップページ | February 2007 »
January 19, 2007敗因の先にあるもの
今回は、「イビチャ・オシムの真実」について、およびそこから考えたことについて書きたいと思います。というのは、盟友のエルゲラさんをはじめ、各所(1) (2) (3)で「イビチャ・オシムの真実」の訳者あとがきに触れられていて、その箇所が気になっていた私も、やはり書いておかなくては、という気になったものです。(以下コラム文体)
オシム思考のルーツがわかる本
まずはこの本について軽く触れておくと、オシム監督がシュトゥルム・グラーツの監督をしている時代に、ゲラルト・エンツィンガー、トム・ホーファーの二人のジャーナリストによりまとめられた自伝を翻訳したものだ。ヴァスティッチやプロシネツキをはじめ多数の証言もあるが、基本的にはオシム監督本人の談話が中心となっており、彼の半生、そしてサッカー的な考え方の「ルーツ」を知ることができる。
読んでいるとこれまで聞いたオシム監督の言葉を思い起こし、「ああ、あそこでこう言ったのは、このような経験が元になっているんだな」と納得させられる箇所がそこかしこに出てくる。多くの人が感銘を受ける「オシム語録」だけではなく、メディアに対する考え方や、ドイツW杯での日本のパフォーマンスに対するオシム監督の評など、さまざまな考え方のベースはこの時代にあるんだな、とわかる、そういう本である。
一つ難を言えば、翻訳なので文章がちょっと硬い。たぶん訳者の問題というよりは、実際にそういう硬さで読まれることを想定した本なのだろうと思うが、ややとっつきにくい印象を与えるのも事実。ただ、監督本人があまりとっつきやすい人ではないし(笑)、そこも彼らしいではないか、と思え、楽しめる人にはお奨めできる。
日本語版にあたり、新たに原作者によって「ジェフ、日本代表監督時代2003~」が書き起こされているのも楽しいところ。
サッカー監督にとって日本で仕事することほど素晴らしいことはない!24時間サッカー漬けが可能なので、監督の立場からすればまさに楽園である
など、泣ける言葉も多い。以下、おいしいところは少しエルゲラさんのところで書き起こされているので参照されたい。私としては、「アジアカップで欧州組を招集するべきか否か」という問題の答えが、この中に書かれているのには驚かされた。やはり相当きちんと考えを持って招集する/しないを考えているのだな、と。
これを読むと、試合後の会見では、やはり記者との丁々発止のやり取りでもあり、あまり本音を言っていないのだろうと思われる。このように文章としてまとまったものの方が、彼の考えをしっかり理解するにはよいのだろう。もっとも、「自分の言葉に縛られるのは嫌い」な監督であるから、今後どうなるかは予断を許さないが。
ストイックな戦う男達の集団ではなくて
さて、冒頭に書いた訳者あとがきのことなのだが、本書の訳者は「平 陽子」という方だ。彼女はドイツ、ボンに在住しておられ、2006ワールドカップ期間中、日本代表宿舎で仕事をされていたとのこと。そして、そのときの体験をあとがきに書かれているのだ。その言葉が私にはショックだった。
ボン合宿中に私が垣間見たものは「ストイックな戦う男達の集団」ではなく、部屋のテレビに日本製ゲーム機が接続できないから困るとか、ドイツの魚は臭みがあるから食べられないとか、「豊かな日本で何の不自由もなく育った若者」そのものでした。
また、宿舎に詰めていた警備員がある時、「日本人というのは闘争心あふれる立派な国民だと思っていたのに、試合を見たら全然違うじゃないか!負けて宿舎に戻ってきてもヘラヘラ笑っているし、朝方まで部屋で騒いだりしているし、一体どうなっているんだ?」と私に率直な疑問をぶつけてきました。彼は、スイスとのプレーオフに負けてワールドカップ出場を逃したトルコからの移民でした。
これはもちろん、彼女の目で見た一つの真実に過ぎないから、過剰に反応することもないとは思う。実際に選手に取材してみたら、「そんなことはない!」という反論が返ってくるかもしれないし。ただ、これまで各所からもれ聞こえてきた大会中のチームの様子や、あるいは大住氏が「無責任とモラルの低さ、これが日本代表か」と嘆いた、2004年のアジア1次予選直前の親善試合イラク戦、さらには、その周辺でいわゆる「無断外出事件」を起こした選手達、といったものを思い起こしてみると、程度の差こそあれ、「ああ、その通りなのだろうな」と思わされずにはおれない。
平氏は、あとがきの後段で
憂えるべきは、「フォワードの決定力不足」云々より、強靭な精神力を持った若者を輩出できない社会環境です。ジーコ・ジャパンの敗因を、メンバーや戦術レベルの問題に括るのではなく、メンタルの問題=日本社会全体の課題と受け止めることはできないでしょうか。
としている。私はメンバーや戦術レベル、そしてメンタルコンディション管理も含めた「チーム・マネジメント」も非常に大きなウェイトを占めてるということを指摘した上で、彼女のこの問題提起には同意したいと思う。ドイツでの「敗因」は、監督だけでもなく、選手だけでもなく、日本全体の問題なのだ、と。
豊かな社会では強靭な精神は育たない?
この原因はどこにあるのだろうか?日本社会がいわゆる「飽食」をし、均質に豊かになったからだろうか。そう言われてしまうと、われわれはサッカーに勝つためには貧しくならなくてはならなくなってしまう(笑)。ただ、もしかしたら、その通りなのかもしれない。世界どこでも、貧富の格差のある国で、下層階級から多くの有名選手が輩出されていることは偶然ではあるまい。向上心、戦う姿勢などは、そういう場合には自然と身につくことでもあるだろう。
日本は今後、格差社会へと近づいていくと言われている。では今後、もしかするとサッカーが強くなるかもしれない?いやいや、そんなことを期待するのはおかしいだろう。今のままの豊かさでも、そういった強靭な精神力を持った若者を輩出することを考えなくてはならない。今のままではそれは不可能なことなのか?いや、私はそうは思わない。
簡単なことだ。世界で通用する野球選手を見てみればよい。野球は打席ではピッチャーとバッターの1vs1、サッカーよりもずっと個人競技の側面があるスポーツではないか。その世界で日本人の若者が通用しているのはなぜなのか?マラソンでもそうであるし、水泳でも、フィギュアスケートでもそうだろう。柔道だってそうではないか。日本の社会が原因で、強靭な精神力を持った若者を生み出すことができない、と決める必要はないのではないか。
ではなぜ、サッカー日本代表の選手達は、平氏の目には「強靭な精神力を持った若者」には映らなかったのだろうか?それには私は二つの理由があると考える。一つはコマーシャリズム、そしてもう一つはナショナリズムである。
肥大した「スターシステム」
コマーシャリズムに関しては言わずもがなであろう。以前からそれはあったが、この4年間は特に「代表バブル」が躍進、肥大した時代でもあった。代表の中心選手にはいくつものCM契約が舞い込み、日本では誰もが彼らの顔を知った大スターとなった。代表戦は常に、有名選手の顔を見に来た観客で満員となり、普段はサッカーを見ない層でも、話の種に、物見遊山で、接待として、デートコースとしてスタジアムを埋める。その結果、本来は世界レベルで見ればまだまだの選手が、日本では持ち上げられ、下にもおかぬ扱いを受けるのだ。
ミックスゾーンで無視して素通りする、きちんと自分の言葉で話そうとしない選手に対しても、広報に食ってかかるだけで本人に大人の態度で諭そうとしなかった。
宇都宮鉄壱氏も、選手のミックスゾーンでの振舞いについてこう書いている。
これまで、ぶ然としたままミックスゾーンを強行突破していく選手に対して、私のみならず少なからずの同業者が、何とも苦々しい思いを抱いていた。「すみません、今日は勘弁してください」という一言でもあれば、まだこちらも納得できるのだが、それすらもない。「メディアにしゃべらないのは、格好いいこと」と勘違いしているような選手が、ごくごく少数派ながらも存在していたことは、実に残念であった。
どうだろうか、何か今回の宿舎での振る舞いと、似た匂いを感じないだろうか?誤解しないで欲しいが、私は選手個人を責めているわけではない。構造として、日本のメディア、広告ビジネス、そしてこの4年間には協会にも、「スターシステム」が蔓延し、それが選手達に悪影響を及ぼすだろうことは以前から指摘されてきた。世界レベルではまだ何も成し遂げていない選手達が、ちやほやされ、メディアや昵懇のライターから「きっと世界ベスト4にいける!」などと持ち上げられ続けていたらどうなるのか。平氏はそれを宿舎での振る舞いに見たのではないか。
ナショナリズムの希薄な私達
さて、もう一つはナショナリズムである。これは非常に微妙な話題だろう。私は政治的にどうこう言おうと思っているのではない。それはこのBLOGのテーマではない(笑)。ただ、サッカーはそれと密接に関係し、世界の多くの代表選手は「国を代表している」という意識を強く持ち、戦っているということは事実だと思う。だからこそ、W杯はあれほどの規模の「お祭り」となるのであるし、サポーターの「後押し」が選手の力にもなるのだろう。そして、言うまでもないが日本の若者達にその意識は希薄だ。
例えば、韓国代表の選手達は、それをよく体現する事例と言える。日本よりも強く国家意識、民族意識を持ち、だからこそ真っ赤に染まったスタジアムでの「テーハミング!」が強力に選手の力になる(個人的にはあの光景は、あまり好きではないが)。日本でも、代表サポーターの力は選手の後押しになっていると思いたいのだが、宮本が言うように、日本チームは「ホーム・ディスアドバンテージ」を感じるくらいであって、少なくとも韓国代表の得ている力とはだいぶん違うのではないだろうか(クラブレベルでの話は別だが)。
日本の若者には(若者だけではないが)、「国家意識」は希薄だ。そういう教育で育っているし、社会全体の風潮もそうであろう(私はそれがいいとも悪いとも言わない)。したがって「日本を代表して戦っている」という意識も希薄にならざるをえない。サポーターの後押しをそのまま力に変えられる選手としては、代表レベルではカズやゴンが最後なのではないだろうか?2002年のロシア戦、終盤でゴンが投入されたのは、横浜スタジアムの観衆の力をピッチに注ぎ込むため、という側面も大きいだろう。
それは彼ら二人がちょっと「特別」だから、でもあるが、やはり彼らが「黎明期を背負っていた」からでもあるだろう。日本サッカーのプロ化の初期には、「日本のために」は難しくても「日本サッカーのために」と考え、行動できる選手達がたくさんいたのだと思う。それは今のなでしこジャパンの置かれている状況とも似ているだろう。また野球選手が、WBCにおいて「日本野球のために」と一体になったことも近いのかもしれない。しかし、日本サッカーはもう黎明期ではない。
「私達」がいかに勝利を希求するか
98年までの日本代表には、初出場という「悲願」があった。「出場して日本サッカーを盛り上げなくては」という問題意識があった。今はそれがなくなってしまっている。そのことが、「日本サッカーのために」という力を沸き立たせにくくしているのだろう。金子達仁氏は「敗因と」の中で、「そうした目標設定がなかったこと」こそ、06年のワールドカップの日本代表の闘いが私達の胸を打たなかった原因だ、としている。では、協会が「ベスト16が目標です」と宣言しておけば、それは解決できたのだろうか?
そうではないだろう。上記の時代は初出場が「ファン、サポも含めた日本サッカー界全体のコンセンサス」だったからこそ、選手がそれを体で感じることができたのだ。協会が「ベスト16が目標です」と口で言って、それがコンセンサスになりえるのか?私達全体が「W杯で本気で勝ってほしい」と思う、心から願うことがないと、そうはならないだろう。「私達」というのはコアなサポのことだけではない。日本全体が、という意味だ。
1998年の時から、メディアの罪は大きい。「やったぜ岡ちゃん、1勝1敗1分いける!」「トルコは弱い、ベスト8見えた!」「自由にすれば、ベスト4も手が届く!」代表バブルを拡大させるための、自分達の力を省みない煽りが、日本全体を勘違いさせている。まずはここを正すことだろう。そのためには一回、「代表バブル」を消滅させることが必要だと、個人的には思う。代表のスタジアムがデートコースになっている現状では、「なんか、勝ってくれるといいなあ」以上のものにはならないだろう。
本来的には「歴史」が必要なのだと思う。何度挑戦しても跳ね返され続けるような、そうした苦闘の歴史があってこそ、そこでの1勝を、心から願うようになるのだろう。あるいは非常に大局的に考えるならば一度(考えたくもないのだが)、W杯に出られない、というようなショックも必要かもしれない。失ってはじめて、人はそのものの価値を知る、という。06年までは、日本がW杯に出られないと日本サッカーの火が消える、という心配があったが、ここまでJリーグが根付けばもう大丈夫だろう。
長期的取り組みと「チーム・マネジメント」
結論を言えば、まずはコマーシャリズムに汚染された「代表バブル」による勘違いを正す、正常化すること。そして、日本人全体がW杯での勝利を心から願い、その価値を重んじること(貧乏になることや、今以上にナショナリスティックな日本になることは、とりあえず選択肢から外す)。後者には時間が必要だが、前者はオシム監督が手をつけ始めていることでもある。前掲、スポナビでの宇都宮さんの記事にもあったが、「スターシステム」がいかにチームに害を与えるかを知り抜いている監督によって、代表の環境は「正常化」されつつある。
また、オシム監督は外出禁止、サンダル履き禁止、移動中の携帯、ゲーム禁止などを打ち出しているという。欧州の監督にはピッチ外でも規律を重んじる監督は少なくない(例えば元大分ベルガー監督)から、これが日本の若者の現状を観察してのことかどうかわからない。が、少なくとも、平氏の観察したようなチームにしないためには正しい方策の一つと思える。さらには、厳しい環境にあえて触れさせメンタルを養うためか、シェフ帯同禁止や移動用のチャーター便の廃止などを打ち出している。そういえばナイジェリアワールドユースの時も、現地のものを食べるように指導した監督がいた。
これらの取り組みを見ていると、「現状の選手でも、やり方によっては『平氏の観察したようなチーム』にしない」ことは不可能ではないように思える。少なくとも、その方向へ向かう「チーム・マネジメント」を採ることは可能であろう。中長期的な取り組みによって「豊かな社会からでも、強靭な精神を持ったサッカー選手を産む」ようにすることは必要なことだ。と同時に、現状の選手達を、そういう戦う集団に鍛え上げていくこと、そのためにさまざまな手段を講じていくこともまた、必要なのだろうと思う。
オシム監督の取り組みが、奏功すること、そして日本代表がまた「闘う集団」になっていくことを、願ってやまない。
それではまた。
04:09 PM [2006総括] | 固定リンク | トラックバック (3) |
January 15, 2007事前プランあっての総括では
本題に入る前に一言書評 「6月の軌跡」増島みどり著
ネット上では評判がイマイチの増島さんですが、98年フランスワールドカップの後、選手はほぼ全員、さらにスタッフもシェフや栄養士の方まで網羅してインタビューしたこの本は、実に良質な仕事といえると思います。私は最近、ドイツW杯の日本代表のビデオを見直して悲しい気持ちになったときにこれを読み返したのですが、なんだか癒されてしまいました。例えば、
小野剛氏 「戦術練習は22回、徹底してプログラムを作りました」
名波浩 「このチームの一員だったことを俺は感謝している」
岡野雅行 「レギュラーとサブの間の大きなギャップというのはあったと思います。でもそれを態度に出したり、嫌な方向へ持っていくメンバーはいなかったと思う。自分はこの代表が大好きですし、すごく誇りを持って来ました」
なぜでしょうね。3戦全敗で06年以上に結果が残らなかったにもかかわらず、選手やスタッフの談話が、やけに心に響くんです。6月の勝利の歌を忘れないもそうですが、一つの集団としてのバランスがいいということなのでしょうか。もう昔のことではありますが、温故知新が癒しになる、という意味で、お奨めできる一冊です。
ちょっとした誤解
さて、dorogubaさんとのトラックバックでのやりとりですが、大体議論は収斂したように思います。お互いの立場の違いもわかってきましたし、双方の意見も明確になったでしょう。後は少しだけ、補足ということではないですが、お返事をしておきたいと思います。
dorogubaさん: オシム日本代表の方向性については「アジアカップ」以降に考えたほうがいいのかもしれませんが、そもそも気になるのは「正常化」「正常な方向」というのを、誰が何をもって定義するのかということですね。
この文章以下の部分では、「私が高い位置で奪うサッカーが『正常』であると考えている」と読まれていると思うのですが(コメント欄のKINDさんもそうですね)、厳密には私は「正常化」とは、「ハードワークと戦う姿勢」に対して使っています。ドイツ大会では、日本代表は「「ハードワークと戦う姿勢」において強豪に比べて劣っていた。私はこの部分を「正常化」してくれることを望んでいる、ということです(ちなみに、「正常化」という言葉は、私の感想であり、協会のテクニカルレポートの言葉ではありません)。
それは制限になっているのか
守備では、システマティックな「プレッシング」が目立ったという指摘がありました。とはいっても、ラインをどんどん上げるというのではなく、どちらかといったら下がり気味のラインをベースに組織的なプレッシング守備を仕掛けていく傾向が強かったということです。フムフム・・http://www.yuasakenji-soccer.com/yuasa/html/topics_3.folder/06_itk_2.html
dorogubaさん: これはエーリッヒ・ルーテメラーの(ドイツ協会が組織したアナライズチームの)分析内容の一部とのことですが、この分析では日本サッカー協会のテクニカルレポートと比べて「高い位置」へのこだわりはないように読めます。
JFAテクニカルレポートでも、「オフサイドルールの解釈の変更により、ハイラインのチームは減った」ことは明確に記述されていますね。頻繁なオフサイドトラップによるハイラインの維持は、以前よりも減り、スペイン、ドイツ、ガーナなど少数派になりました。「下がり気味のラインを引いたチームが多かった」ということは、共通の認識といえましょう。違いは、「そこからの組織的なプレス」についてどのように記述するか、という点でしょうか。
私が「高い位置でのフィジカル・コンタクト数」に注目したのは、テクニカルレポート中の次のような記述によります。
1)今大会では受動的に守備をしていたら守り切れない。前線から相手に限定を加え、自チームが主導的にボールを奪っていくことが重要。 2)上位に進出したチームはボールに対して寄るだけでなく、-ボールを奪いに行くために体をしっかり寄せにいく守備を行っている。 |
特に2)には、「日本の感覚で『寄せている、プレスしている』と思っても、国際レベルではそれは制限にはならない」(ケット・シーの意見)ということも付け加えておいたほうがよいと思います。これはブラジル戦で、ブラジルの選手と中盤で距離を置いて対面した日本の選手が、まるでそこに「いない」かのようにパスで抜かれていくシーン(頻出していましたね・・・)でよくわかることではないでしょうか。見返したくもないのですが、例えば試合序盤だけでも、
7分: ロナウジーニョに対して中盤で制限が効かず、ロナウドへパスをされて枠内シュートを打たれたシーン。 11分: 同じくロナウジーニョに中盤で自由にパスをはたかれ、左サイドからロビーニョが持ち込んで枠内シュート。 15分: 中盤でロナウジーニョと日本選手二人が距離を置いて相対しているが、制限にならず、ロビーニョにパスを出されカカとのワンツーで枠内シュートを打たれたシーン。 |
というシーンが見られました。いずれも川口のファインセーブに救われたとは言え、ほぼ1点ものの崩され方です。どれもミドルサードで日本の選手がプレスに行って、ややルーズに距離を置いて相対し、「制限」ができなかったことからスタートしています。しかも、けしてロナウジーニョがすばらしいテクニックで中盤の日本人選手を「抜いた」のでは「ない」ことに注目したいですね。まさに、「日本の感覚で『寄せている、プレスしている』と思っても、国際レベルではそれは制限にはならない」ことの見本のような事例でした。
15分のシュートの直後には、スカパーでの解説の原さんが「ここら辺(DFライン)で対応するのはやっぱり難しいので、もう少し前でボールにアタックに行かないといけない」と言っていますが、現地で見ていた私も同感だったのです。
テクニカルレポートでは1)2)のような流れがあるため、(特にDVDのほうで)強豪が行った敵陣や高い位置での守備、攻撃の選手から奪いに行く姿勢、体の寄せなどについて、詳述しているのでしょう。それがないと守りきれない時代、というのは、理解できますね。私がカウントした高い位置でのコンタクト数も、それを裏付けていると思います。
ラインの高さとプレス
ところで、J-KET・BBSのほうにプリメーラさんから質問をいただきました。
「ラインが低くても高い位置から奪いに行くプレス」というと、どんなイメージなんでしょうか?高い位置から行こうとすると、ドイツのようにラインを上げるほうが普通のような気がするんですが?
確かにここは少し、はしょり過ぎた(笑)かもしれません。
オフサイドルールの解釈の変更により、頻繁なオフサイドトラップでハイラインを維持することのリスクは大きくなりました。その結果、そういうチームはドイツ、スペイン、ガーナなど、少数派になっていったと思います。テクニカルレポートにもありましたが、「低いラインをベースにするチームが多かった」ということになります。
しかしでは、低いラインでいわゆる「引いて守ってカウンター」をするかというと、高いレベルではもうそういう「受動的守備」では守りきれない、ということがあります。そこで
リスクが増えたハイラインの維持はしないけれども、引き過ぎることはせず、ある程度の高さにラインを維持して、ミドルサードからプレスを始めるチームが多かった
ということになるのだと思います。
「最終ラインは低くても」という書き方では、いわゆるべたべたに引いて守ることを書いているように読めてしまいますね。もちろんそれでは、高いレベルで勝ち上がっていくことはできませんから、どちらかというと「プレスの位置、状況が最終ラインの高さを決める」という記述が正しいかと思います。逆に言えば、プレスがかかっていないチームはラインをどんどん下げざるを得ないということでもあります。この辺は鶏と卵ですね。
左の図は、ポルトガルvsオランダ戦において、フィーゴが相手陣内で激しくプレッシャーをかけに行っている時のポルトガルDFラインの位置を図示したものです(1/17/15時追加)。エンジがポルトガル、白がオランダ選手の配置を示しています。DFラインは下がりすぎず、ほぼミドルサードの下限くらいに位置していますね。これは一例ですが、やはり「コンパクト」であることは基本的にはどのチームも志向していて、プレスがかかっていれば下がりすぎず、中間くらいの高さのラインを取っていました。
また、「高い位置から」というのは「ミドルサード以上から」ということでもあるのですが(例えばポルトガル、メキシコはディフェンディングサードよりもミドルサードのほうがコンタクトが多いですね)、同時に「FWから」プレスに行く、ということでもあります。それも、ただ方向を限定するだけの守備ではなく、しっかりと体を寄せて奪いにいく守備も多くしている(ちなみになぜポルトガル、メキシコを選んだかというと、日本と体格的にかけ離れているわけではないので、日本の参考になると思ったからです)。そうでないと、高いレベルでは守りきれなくなっているのだ、ということですね。
協会のPDCA
ここから再びdorogubaさんへのお返事に戻ります。
dorogubaさん: もちろん監督を選ぶのは協会の仕事ですし、その監督の人選に置いて協会は「サッカースタイルや戦術」を考慮することになるんでしょうけど、「サッカーのスタイルや戦術」を決定するのはあくまで監督で、それをサポートするのが協会の役目であると思うんですよね。
個人的には、これまでもなされてきたように、技術委員会がテクニカルレポートなどで、日本代表の方針(≒スタイル)を定めていくことが正しいと私は思っています。そして、それが育成の場にまで下りて行き、世界大会での課題がフィードバックされていく。これまでの日本の発展はそのようにしてできたことでしょう。また例えばフランスなどの強化も、大まかに言うと似たような形で進んできたのではないかと思います。
そのような強化の方針があれば、それに沿って監督の人選をしていくのがノーマルでしょう。そうしてこそ、PDCA(Plan-Do-Check-Act)ができていくのだし、4年間が一回きりの経験に終わらず、螺旋形に発展していける「礎」となるのだと思うのですね。方針がなく、スタイルについてまで監督に丸投げであっては、それができなくなってしまいます。
余談ですが、だからこそこの4年間がおかしな状態だったと思っています。会長の独断によって、Planなしに就任してしまった監督は、そのためにCheckもActもできない状態になっていた。評価する機関もなくし、メディアにも評価をさせない圧力をかけた。そしてそれがドイツ大会の敗退(の一因)につながっていったのではないか、と私は思いますね。またそれが故に、協会は事後のCheckもActも放棄している/せざるをえない、のかもしれません。
dorogubaさん: もちろん、雇った監督の仕事を分析して評価して次に生かすというは必要なことであると思いますが、その分析や評価を「1つの戦術(たとえば、高い位置とかプレス)」からのみ行うのは間違いである気がする次第です。
誤解のないようにお話しておきますが、協会はテクニカルレポートにおいて「一つの戦術」によってジーコジャパンを評価することはしていません。小野剛氏が「大会の趨勢」を語り、小野、田嶋両氏が「日本代表のパフォーマンス」を語っている。私がそれを読んで、「なぜその両者をリンクさせないのか?」という疑問を書いたのが、「2006大会の趨勢と日本」というエントリーでした。むしろ、協会は「ジーコジャパンを評価する」ことを、とことん避けているように私には見えます。
dorogubaさん: だって、そもそもKETSEEさんが正常だったとおっしゃる「98年、02年のスタイル」って、協会のスタイルというよりも加茂&トルシエのスタイルだったわけで、「高い位置&プレスサッカーだから」彼らを監督にしたわけではないと思うんで。
トルシェ監督就任時には、その時の強化方針にそった監督ということでフランス協会と相談し、選定したという経緯があったようです(いわゆるベンゲル推薦は、その「後」のことらしいですね)。日韓大会後、ジーコ監督に決める前に技術委員会がリストアップしていた候補者たちも、強化方針に基づいて選ばれた監督だったと思います。鶴の一声でジーコ監督になる前は、けっこう協会は(PDCAの視点から見て)まともなことをやっていたようですよ。
テクニカルレポートにある通りなら、1年前に日本の課題を分析し、方針を定めていたからオシム監督に決定することができた、とのことです。個人的には、またいくらかはまともな方針になり、それに基づいた選定になったように思います。つくづく、「鶴の一声」がなかったらなあ、と思えてなりませんが、今の協会はその問題を隠蔽しようと必死になっていますね(おっと、以上の文脈にある「まともなこと」は、ケット・シーの考えるまともな(PDCAのある)路線、ということですので、違う考え方も尊重いたします)。
個人的には、西部さんあたりが小野剛氏にインタビューすると、多少はまともな日本代表のドイツ大会の総括が聞けるのではないかと思います。サッカー批評あたりでやってくれないかなあ。
そろそろこのお話もまとめでしょうか。それではまた。
07:39 PM [2006総括] | 固定リンク | トラックバック (0) |
January 10, 2007高い位置から奪いに行くプレス
みなさまあけましておめでとうございます。前回のエントリーは続き物でしたので、ご挨拶は抜きにさせていただきました。ここであらためて、日頃のご訪問に感謝をささげ、新年のご挨拶に代えさせていただきたいと思います。今年もどうぞよろしくお願いします。
「2006大会の趨勢と日本(テクニカルレポートより) 」は結構な反響をいただきました。やはり、2006年のあの悔しさに対するきちんとした総括は、どうしてもやっておくべきなのだな、と感じています。悔しい、思い出したくないですけれども、協会がそれを見ないようにしているのだから、なおさらですね。
さて、前回のエントリーに関し、dorogubaさんからトラックバックをいただきました。非常に興味深いご指摘がありますので、ここでお答えをさせていただきたいと思います。
dorogubaさん: 問題は、高い位置でのフィジカル・コンタクト数なんでしょうか?
私は、ドイツ大会でのジーコジャパンには多くの問題があったと思っています。dorogubaさんが文章中でおっしゃっている「局面局面での判断力の欠如」とか「試合運びのまずさ」とかも問題でしたでしょうし、「敗因と」の中でメインテーマとなる、攻撃陣と守備陣の考え方の「溝」もそうだったでしょう。またフィジカル、メンタル両面のコンディショニングも拙いものでした。さらには、プレスをかけられると機能しなくなるパス回しや、ぽっかりと空くバイタルエリアなど、戦術面も問題でした。それらについてはBLOGで、あるいはJ−KETでずいぶんと考察しているのですが、どれが「もっとも大きな問題」であり、「敗因」だったのかは、意見が分かれるところだろうと思います。
私が前回のエントリーでフィジカル・コンタクトの位置に注目したのは、次のような(テクニカル・レポートでの)文脈があってのことです。
1:この大会での勝ち抜いた国は、「高い位置から奪いに行くプレス」をしていた。
2:そのために「全員の高い技術、ハードワーク、闘う姿勢」が必要とされ、それがないと勝てない時代になった。
3:日本とそういう国との差は、「全員の高い技術、ハードワーク、闘う姿勢」という当たり前のところの差である。
この文脈内で、1、2、3の問題をチェックするために、フィジカル・コンタクトの位置と数をカウントしてみたのです。もちろんそれ「だけ」が重要だとは思っていませんが、一つの指標として、やはり実際に高い位置でのコンタクトは、例えばポルトガル、メキシコでも日本と比べると多く、テクニカルレポートにあるとおり、「(最終ラインは低くても)高い位置から奪いに行くプレス」がドイツ大会の趨勢であるのは間違いがないところだと思います。そして日本は、それとは違うサッカーになっていた、ということが数字にも表れています。
しかし、私は「それが日本の最大の敗因だ」とは思っていませんし、書いてもいません。日本が世界の趨勢と違うサッカーをしても、それで勝てるならかまわないのです(勝てませんでしたが)。ジーコジャパンの問題、敗因に関しては、先にあげたように多岐にわたるものがあり、そのどれもがそれぞれ重要だと思います。ただここでは「テクニカルレポートにある世界の趨勢と違うサッカーであった」ということを確認しているに過ぎません。
ちなみに、私は以前から書いていますように、ジーコジャパンでは「高い位置から奪いに行くプレス」の整備は無理だと思っており、その意味では「コンフェデ・ブラジル戦の後半」にできた、リトリート・プレス(造語)を行うのがよいと思っていましたし、そう書いていました。
その意味では、クロアチア戦での「リトリート指示」については、遅きに失してはいるものの「間違っていない」とは思います。ただ、W杯に向けた合宿を始めてから4バックは練習していなかったと聞いていますし、実際試合でも、相当の崩されたピンチを作られています。クロアチアが暑さでやられていたので助かりましたが、前半にはPKも取られましたし、急造の感は否めない、うまく機能したとはいえない、と思っています。
ハードワークと闘う姿勢
dorogubaさん: 「ハードワーク」と「高い位置」の結びつけがちょっと強引なところがあるような気がしたんで。
私は上記テクニカルレポートの文脈の1、2、3が不可分だと考えていました。ドイツW杯の趨勢に関する文脈内では「フィールド全域でのハードワークが必要」と読めたからです(「ハードワーク」は「運動量」も含むと考えました)。したがって、フィジカル・コンタクトの位置をカウントすることで、それらを一つにまとめて検証したつもりでした。が、確かに「高い位置でのフィジカル・コンタクト数は、高い位置で奪うプレスの指標にはなる」、けれども「ハードワークや闘う姿勢の指標には完全にはなっていない」とは言えます。
ですので、全体の論旨は変わりませんが、私の上げたデータは「日本が(大会の趨勢である)高い位置で奪うプレスをしていない」ことの証左だとして、前回のエントリーに付け加えたいと思います。ご指摘ありがとうございました。
しかしながら、上川主審も述懐し、かつテクニカルレポートで書かれているように、「日本はハードワークや闘う姿勢において、強豪国に劣っていた」のも確かだと思いますし、それが大きな敗因の一つであるとも思います(個人的意見です)。その点では(それ以外の点でも)、選手起用、組織作り、メンタル/フィジカルコンディションの整備において、ジーコ監督の責任は非常に大きく、それにまったく触れないテクニカルレポートには、大きな不備があると考えています。
ところでこの図は、三代の日本代表が一試合の中で、フィールドのどの位置でフィジカル・コンタクトを敢行していたかをピッチ上に図示したものです(誤りがあったので図を訂正しました:1/11/16:40pm)。緑から赤に行くにしたがって多くなっています。トルシェ日本についてはロシア戦、いわゆる最終ラインの位置の修正が選手によって行われ、ラインが低くなっていると喧伝された試合のものです。もちろん、コンタクトの数や位置はさまざまな条件によって変わり、それだけが重要なのではありません。しかしこうして図示してみると、いろいろなことが結構わかりやすくなるな、という感想を私は持っています。
dorogubaさん: それをもって「正常な方向」と結論づけるのもどうかなって思いますし、日本代表の進むべき道はそこではない気がします。というか、オシムが向かっているのは「そこ」なんでしょうかね?
「高い位置から奪いに行く」ことについては、オシム監督のチームは、ジェフの時からそれを目指しているように私には思われます。特にボールを失った瞬間の守備が強く意識付けられ、攻撃の選手も自分から奪いに行く姿勢が強い。それはガーナ戦でのフィジカル・コンタクトの位置のカウントでも現れていますね。むしろその姿勢が強すぎて後ろにちょっと不安があり、ジェフは失点の少なくないチームでした。代表ではどうなるか、気になりますね。
また、「全員のハードワークと闘う姿勢」については、オシム監督はそれを最低の前提条件としているのではないでしょうか?特に高い位置から奪いに行く時はそれが必要になりますが、そうでなくてもそれは「当たり前のことの徹底」であって、本来はことさらに取り上げるようなことではないと言ってもいいくらいです。
しかし、テクニカルレポートではそれが「ドイツ大会の日本ではできていなかった」とされていますし、私も同感なのです。ですからまずは、その部分を「正常化」し、それをステップボードとしてその先へ行こうということではないかと思っています(その「先」がどこかというのは興味深いですが、それはまたいずれ)。「走らなければサッカーにならない」「一人でも守備をしない選手がいると勝てない」というのは、オシム監督の口癖ですよね。
dorogubaさん: ジーコ日本代表のFWは守備してませんでしたか?
していましたね。高原はブンデスリーガでは、「守備し過ぎるから点が取れないんだ」と批判されたりする選手ですし。ただ、フィジカル・コンタクトをした位置のカウントを見ていただいてもお分かりのように「多くなかった」ですね。また、ジーコ監督がFWにそのような指導をしていたり、指示をしていたか、という情報は、私は寡聞にして知りません(していたのかもしれませんが)。どちらにせよ、大会の趨勢に比べると、多くなく、組織だってもいなかったと私は思います。
dorogubaさん: オシムのマンマークの3バックの由来?
オシム日本は「3バック」ではないのではありませんか?2CBプラス「阿部」で、敵が2トップなら阿部が下がって3バックになり、敵が1トップや3トップの時は阿部が上がって4バック(2CB)になるという、非常にフレキシブルなやり方ですよね。
さて、前回のエントリーは、テクニカルレポートに書かれた
A:「日本代表は(大会の趨勢である)高い位置から奪いに行くプレスをしていなかった/できていなかった」
B:「(これまでの日本代表ではできていた)連動したプレスは、ブラジル戦の前半以外できていなかった」
C:「ハードワークや闘う姿勢でも、強豪国に劣っていた」
という3点を考察したものでした。私がカウントしたデータは、このうちのAのポイントを補強するものだということです。とはいえ、考察全体の趣旨は変わりません。そしてオシム監督は、AとCをやはり不可分のものとし、強化しようとしているように見えます。攻守の切り替えがますます早くなっていく現代のサッカーでは、それは正しいことだと私には思えますし、それが成功することを心から祈っています。
それではまた。
10:40 PM [2006総括] | 固定リンク | トラックバック (1) |
January 06, 20072006大会の趨勢と日本(テクニカルレポートより)
日本代表テクニカルレポートのうち、小野剛氏による2006年大会全体を俯瞰した「大会全般」「技術・戦術分析」は、それなりに読みでがあり、興味深いところもある。しかし同時に、小野氏自身は触れていないが、ジーコジャパンの問題点のえぐりだしにもなっていると思う。前回に続いて、ざっと見ていこう。
2002年日韓大会では、どのチームも守備を高度に組織化していたために、ボールを奪ったらそれが整う前に攻撃しきってしまう、いわゆる「ダイレクトプレー」からでないと得点が難しく、その割合が非常に多かった。しかし2006年ドイツ大会では、それが減っていた。各チーム、基本的には守→攻の切り替えの時点では、ダイレクトプレーを狙っているにもかかわらず、である。
ボールを獲得してから10秒以内の得点は今大会が約34%、
2002年大会が約53%
その原因について、本書では、以下次のようにロジックが立てられる。
カウンターからの得点が減少 ↓ カウンターをさせない守備が徹底されていた ↓ 全員の守備意識、守備能力が非常に高く、 ボールを失った瞬間に、チームとして相手にカウンターをさせない守備を行っていた ↓ 前線の選手も含め、全員に徹底したハードワークが要求される守備 |
ここから少し引用しよう。
今大会は、サッカーがさらに洗練されてきて、甘さ、隙があったら勝てない、甘えが許されない、サッカーがさらに進化した大会であったと言える。全員が、高い技術、闘う姿勢、ハードワークを高いレベルでベースとして持っている国のみが勝てる。世界のサッカーはそういう段階に突入している。
勝つチームは、何かを免除されるスーパースターはもはや存在しない。たとえば守備が免除されハードワークをしなくてよい選手がいるようなチームは、よい成績を残していない。2~3大会前だったらスーパースターと呼ばれたであろうタイプの選手は、今大会では通用しなくなっているのである。
これについては、「技術・戦術分析」のなかの「Ⅱ.フィールドプレー 守備編」でさらに詳しく触れられている。
1. ボールを奪いに行く姿勢: 今大会で示された守備の傾向は、相手の攻撃を遅らせたり、バイタルエリアへの進入を阻止したりするだけでなく、明らかに前線から相手の攻撃に制限を加え、チームとして意図的にボールを奪い、攻撃に結び付けていくというものであった。
これらは私も、ピッチの上に実際に見て取れたことだと思うし、同感でもある。現在のサッカーではあのバルセロナのエトーでさえ、しっかりと守備をしているのだ。FWの守備を免除するようなチームは、ベスト8に進出するような国にはもはやないと言っていいだろう。さらには多くのチームで、最前線の選手までもが「遅らせる」だけの守備ではなく、体を張って奪いにいく守備をしている。オフサイドルールの変更によりハイラインのチームは減ったのだが、それでも強豪チームはいわゆるリトリート(下がって待ち受ける守備)だけではなく、高い位置から全員で「奪いにいく」プレスをしているのである。それがないと勝てない時代になってきた、ということなのだろう。
大会の趨勢においていかれた日本
ひるがえって日本はどうだっただろうか。
小野剛氏は、田嶋氏よりは客観的に、日本代表の戦いぶりを記述している。
日本はボールに近づくが、チャンスがあれば奪える距離までは寄せきれていない。そのため相手に対してのプレッシャーになっておらず、シュートをうたれる、あるいはクロスを入れられる場面が多かった。
日本は「連動したボールへのプレス」ができておらず、守備面において「大会全体の趨勢」に追いついていないチームになっていた、ということだ。これはドイツ大会だけではなく、ジーコジャパンの軌跡をつぶさに見ていれば、ほぼ誰にもわかることだったのではないだろうか。アジアカップやアジア予選でさえ、前線からのプレスが奏功したシーンは少なく、下がって待ち受ける守備で闘っていたジーコジャパン。世界レベルで突然それができるようになるはずがあるだろうか。
この点において、前回飛ばした田嶋氏の守備面での分析を見てみよう(日本代表テクニカルレポート:5章「日本代表報告」)。
7)コンフェデ杯では「連動したボールへのプレス」ができていなかった
8)W杯ブラジル戦の前半はできていた
これは興味深いものだ。なぜなら「オーストラリア戦やクロアチア戦は?」と聞きたくなる書き方だからだ。実際、サッカー批評 Issue32(2006)「われわれは惨敗を直視する」の中の「田嶋幸三 戦後の述懐」では、田嶋氏自身「クロアチアとオーストラリアではそれができなかった」と語っている。私もブラジル戦の前半はそれなりにできていたと思う。しかし、3試合のうち45分間だけ取り上げてどうするのか。そこでの問題は「90分持たなかった」ことではなく、「オーストラリア、クロアチア戦ではできなかった」ことだろう。できていた試合、時間帯は少なかった。その原因は何なのか。
7)コンフェデ杯では「連動したボールへのプレス」ができていなかった
8)ブラジル戦の前半はできていた
9)90分持たなかった(チェルシーやアーセナルはできている)
お分かりだろうが、ここでひとつのすり替えが起こっている。とにかくジーコ監督の指導の話を一切しないようにするためか、ブラジル戦だけに話を絞り、「後半にはできなかった」ことを「日本人全体が持っている課題」のように言ってしまう。そうだろうか?過去にそれを90分やり通したチームはなかっただろうか?日本代表は、常にああいう試合をするチームだっただろうか?何かをわざと見ないようにしていないだろうか?
14)守備をしっかりし、連動したプレッシャーをかけることは日本ができていたことで、今後徹底してやりたい
(西野、山本、田中、トルシェ、岡田)
田嶋氏はまさに、「連動したボールへのプレス」は、上記の監督が指導したこれまでの日本代表では「できていたこと」としている。私もまったく同感である。しかし、オーストラリア戦、クロアチア戦では「できていなかった」のだ。これまでの日本代表でできていたことが、05コンフェデ杯でも、またこのW杯の83%の時間でも「できていなかった」という分析。しかしそこに「なぜできなかったか」は出てこない。それが出てこなければ分析ではないし、今後にも生かせないだろう。何をかいわんやである。
全員のハードワーク、闘う姿勢
さて、4章の最後で小野剛氏は、
(日本と)勝った国との差は、最終的な部分の差ではなく、「当たり前」の部分の習慣化、徹底のところの差であったと考える。勝った国が持っていた全員の高い技術、全員のハードワーク、全員の闘う姿勢というベースの部分を、もっとレベルアップする必要がある。
としている。これは正しいと思う。例えば、守備時にピッチ上のどこでフィジカル・コンタクトを行ったかをカウントしてみると、次のようになる(ヘディングは「奪いにいく守備」とは関係ないと考え、除いてある)。
- | アタッキングサード | ミドルサード | ディフェンディングサード |
日本代表 | 3 | 29 | 54 |
ポルトガル代表 | 10 | 48 | 45 |
メキシコ代表 | 15 | 52 | 35 |
これはオーストラリア戦の日本代表と、オランダ戦のポルトガル代表とで比べてみたものだ。背の高い敵という点で(オーストラリア/オランダ)共通し、終盤に押された試合内容が近いと思い、例に取り上げてみた。ピッチを縦に3分割し、自陣に近いほうをディフェンディングサードとする分類を使っている。
一目瞭然、高い位置(ミドルサードからアタッキングサード)で日本代表がフィジカル・コンタクトを敢行した数が少ないのが、はっきりとわかるだろう。(もちろん、コンタクトなしでも「奪える」守備はあるが、それも日本の試合では少なかった)。参考までに、アルゼンチンと戦ったときのメキシコ代表のデータも加えておく(90分間)。W杯で主審を務めた上川氏が、「日本が一番闘っていなかった」と語り、私もそう考えたのだが、それは技術委員会の分析でも、またあらためてデータ化してみても、よくわかることなのである。
日本は言うまでもなく、個人の能力では欧州、南米の強豪国には劣るだろう。また体格、フィジカルコンタクトの能力では、アフリカの強国にも一歩譲ると思う。そういうチームが、「全員のハードワーク、全員の闘う姿勢」という部分でも劣っていたのだ。勝てるわけがあるだろうか?
技術は一朝一夕には伸ばせない。確かに育成を待たなくてはならない部分ではあろう。しかし、「ハードワークや闘う姿勢」はそうなのか?それは、田嶋氏自身が言うように、フランス大会や日韓大会(どちらも酷暑の大会であった)の日本では「できていたこと」、むしろ誇るべき美点でさえあったのではないだろうか?私たちは、足の骨が折れてさえ最後まで走る選手を、知っていたのではないのか?方針や指導さえ間違っていなければ、それはドイツ大会でもできたことだったのではないか?
私たちはずっと、ジーコ監督の組織作りの能力が高くないこと、特にディフェンス面で、およびプレスの指導の面で低いこと、それにより日本代表の多くの問題が発生していることを指摘してきた。今回専門家である協会の技術委員会も、「ドイツ大会の日本代表は、多くの時間帯でプレスがうまくできていなかった」ことを公式に認めた(まあ認めざるを得ないだろう)。私たちからすれば、それはずっと前からわかっていたことであるが、田嶋氏も「そういう分析をしていたから、1年前にオシム監督に決めることができた」と語っている。ああ、その言葉の通りなら、1年前にオシム監督に代えてくれていたなら、というのは、あまりに悲しい想像ではある。
回り道は終わった
そう、「全員のハードワーク、闘う姿勢」というキーワードが、オシム監督ほど似合う指導者はいるだろうか?全員が走り、マンマークし、体をぶつけ、高い位置でボールを奪おうとし、奪えばどんどんリスクチャレンジして攻撃参加していく。この部分で、オシムサッカーは98年、02年に「できていたこと」を正当に継承すると言えるだろう。特に、前線の選手にまでマークをすることを要求するやりかたは「敵ボールホルダーを早く、高い位置で捕まえる」ことになり、今大会の趨勢である「カウンターをさせない守備」にもつながってくる。以下は参考でしかないが、オシム日本vsガーナ戦でのフィジカルコンタクトのポイントを見てみよう(ジーコ日本代表はオーストラリア戦)。
- | アタッキングサード | ミドルサード | ディフェンディングサード |
ジーコ日本代表 | 3 | 29 | 54 |
オシム日本代表 | 13 | 50 | 38 |
メキシコ代表 | 15 | 52 | 35 |
もちろんこれはあくまでも参考にしかならない。6人交代できる親善試合と本番は違うし、夜の試合と昼の試合も違うだろう。力試しの試合と、本番中の本番でどちらが慎重に行くべきかという問題もある。また、4年間の集大成であり、1ヶ月におよぶ合宿をこなした後の試合と、就任してからまとまった強化期間が取れず、たった5試合目という試合では、いろいろなことが違うのは当然である。しかし、試合を見てみれば、多くの選手が高い位置から奪おうとし、ファウルも辞さないプレーをしているのはよくわかる。すくなくとも、そうしようという意欲はこのデータからもわかるだろう。
私がオシム監督の方針に、おおぐくりで賛成なのは、このような論拠による。ただし、その守備戦術は日本代表ではまだまだ未完成だろうと思う。これまでの試合でも見てきたように、最終ラインのマンマークと、「奪いにいく守備」が連動していないシーンはままあり、このままでは真の世界レベルと戦うことはできないだろう。それでも、「全員にハードワークを要求し、守備を免除する選手を作らない」ということに、オシム監督はすでに手をつけている。オシム監督の「走らない選手は使わない」という宣言、ドイツワールドカップでの、あれほどのスーパースターたちがあれほどひたむきに、泥にまみれ、体を投げ出して守備をしている姿を見れば、日本がまさにオシム監督の言うような方向へ進まなくてはならないことは、誰にも自然と理解されることではないだろうか。
遅まきながら、また協会の責任逃れをよそに、オシム日本はようやく正常な方向へ進み始めた。2007年はその進歩が着実で、少しでも先に進めるようになること、そして邪魔をしようとする勢力が現れないことを、願ってやまない。
それではまた。
01:10 AM [2006総括] | 固定リンク | トラックバック (1) |