January 19, 2007

敗因の先にあるもの

今回は、「イビチャ・オシムの真実」について、およびそこから考えたことについて書きたいと思います。というのは、盟友のエルゲラさんをはじめ、各所(1) (2) (3)で「イビチャ・オシムの真実」の訳者あとがきに触れられていて、その箇所が気になっていた私も、やはり書いておかなくては、という気になったものです。(以下コラム文体)


オシム思考のルーツがわかる本

まずはこの本について軽く触れておくと、オシム監督がシュトゥルム・グラーツの監督をしている時代に、ゲラルト・エンツィンガー、トム・ホーファーの二人のジャーナリストによりまとめられた自伝を翻訳したものだ。ヴァスティッチやプロシネツキをはじめ多数の証言もあるが、基本的にはオシム監督本人の談話が中心となっており、彼の半生、そしてサッカー的な考え方の「ルーツ」を知ることができる。

読んでいるとこれまで聞いたオシム監督の言葉を思い起こし、「ああ、あそこでこう言ったのは、このような経験が元になっているんだな」と納得させられる箇所がそこかしこに出てくる。多くの人が感銘を受ける「オシム語録」だけではなく、メディアに対する考え方や、ドイツW杯での日本のパフォーマンスに対するオシム監督の評など、さまざまな考え方のベースはこの時代にあるんだな、とわかる、そういう本である。

一つ難を言えば、翻訳なので文章がちょっと硬い。たぶん訳者の問題というよりは、実際にそういう硬さで読まれることを想定した本なのだろうと思うが、ややとっつきにくい印象を与えるのも事実。ただ、監督本人があまりとっつきやすい人ではないし(笑)、そこも彼らしいではないか、と思え、楽しめる人にはお奨めできる。

日本語版にあたり、新たに原作者によって「ジェフ、日本代表監督時代2003~」が書き起こされているのも楽しいところ。

サッカー監督にとって日本で仕事することほど素晴らしいことはない!24時間サッカー漬けが可能なので、監督の立場からすればまさに楽園である

など、泣ける言葉も多い。以下、おいしいところは少しエルゲラさんのところで書き起こされているので参照されたい。私としては、「アジアカップで欧州組を招集するべきか否か」という問題の答えが、この中に書かれているのには驚かされた。やはり相当きちんと考えを持って招集する/しないを考えているのだな、と。

これを読むと、試合後の会見では、やはり記者との丁々発止のやり取りでもあり、あまり本音を言っていないのだろうと思われる。このように文章としてまとまったものの方が、彼の考えをしっかり理解するにはよいのだろう。もっとも、「自分の言葉に縛られるのは嫌い」な監督であるから、今後どうなるかは予断を許さないが。


ストイックな戦う男達の集団ではなくて

さて、冒頭に書いた訳者あとがきのことなのだが、本書の訳者は「平 陽子」という方だ。彼女はドイツ、ボンに在住しておられ、2006ワールドカップ期間中、日本代表宿舎で仕事をされていたとのこと。そして、そのときの体験をあとがきに書かれているのだ。その言葉が私にはショックだった。

ボン合宿中に私が垣間見たものは「ストイックな戦う男達の集団」ではなく、部屋のテレビに日本製ゲーム機が接続できないから困るとか、ドイツの魚は臭みがあるから食べられないとか、「豊かな日本で何の不自由もなく育った若者」そのものでした。

また、宿舎に詰めていた警備員がある時、「日本人というのは闘争心あふれる立派な国民だと思っていたのに、試合を見たら全然違うじゃないか!負けて宿舎に戻ってきてもヘラヘラ笑っているし、朝方まで部屋で騒いだりしているし、一体どうなっているんだ?」と私に率直な疑問をぶつけてきました。彼は、スイスとのプレーオフに負けてワールドカップ出場を逃したトルコからの移民でした。

これはもちろん、彼女の目で見た一つの真実に過ぎないから、過剰に反応することもないとは思う。実際に選手に取材してみたら、「そんなことはない!」という反論が返ってくるかもしれないし。ただ、これまで各所からもれ聞こえてきた大会中のチームの様子や、あるいは大住氏が「無責任とモラルの低さ、これが日本代表か」と嘆いた、2004年のアジア1次予選直前の親善試合イラク戦、さらには、その周辺でいわゆる「無断外出事件」を起こした選手達、といったものを思い起こしてみると、程度の差こそあれ、「ああ、その通りなのだろうな」と思わされずにはおれない。

平氏は、あとがきの後段で

憂えるべきは、「フォワードの決定力不足」云々より、強靭な精神力を持った若者を輩出できない社会環境です。ジーコ・ジャパンの敗因を、メンバーや戦術レベルの問題に括るのではなく、メンタルの問題=日本社会全体の課題と受け止めることはできないでしょうか。

としている。私はメンバーや戦術レベル、そしてメンタルコンディション管理も含めた「チーム・マネジメント」も非常に大きなウェイトを占めてるということを指摘した上で、彼女のこの問題提起には同意したいと思う。ドイツでの「敗因」は、監督だけでもなく、選手だけでもなく、日本全体の問題なのだ、と。


豊かな社会では強靭な精神は育たない?

Image007この原因はどこにあるのだろうか?日本社会がいわゆる「飽食」をし、均質に豊かになったからだろうか。そう言われてしまうと、われわれはサッカーに勝つためには貧しくならなくてはならなくなってしまう(笑)。ただ、もしかしたら、その通りなのかもしれない。世界どこでも、貧富の格差のある国で、下層階級から多くの有名選手が輩出されていることは偶然ではあるまい。向上心、戦う姿勢などは、そういう場合には自然と身につくことでもあるだろう。

日本は今後、格差社会へと近づいていくと言われている。では今後、もしかするとサッカーが強くなるかもしれない?いやいや、そんなことを期待するのはおかしいだろう。今のままの豊かさでも、そういった強靭な精神力を持った若者を輩出することを考えなくてはならない。今のままではそれは不可能なことなのか?いや、私はそうは思わない。

簡単なことだ。世界で通用する野球選手を見てみればよい。野球は打席ではピッチャーとバッターの1vs1、サッカーよりもずっと個人競技の側面があるスポーツではないか。その世界で日本人の若者が通用しているのはなぜなのか?マラソンでもそうであるし、水泳でも、フィギュアスケートでもそうだろう。柔道だってそうではないか。日本の社会が原因で、強靭な精神力を持った若者を生み出すことができない、と決める必要はないのではないか。

ではなぜ、サッカー日本代表の選手達は、平氏の目には「強靭な精神力を持った若者」には映らなかったのだろうか?それには私は二つの理由があると考える。一つはコマーシャリズム、そしてもう一つはナショナリズムである。


肥大した「スターシステム」

コマーシャリズムに関しては言わずもがなであろう。以前からそれはあったが、この4年間は特に「代表バブル」が躍進、肥大した時代でもあった。代表の中心選手にはいくつものCM契約が舞い込み、日本では誰もが彼らの顔を知った大スターとなった。代表戦は常に、有名選手の顔を見に来た観客で満員となり、普段はサッカーを見ない層でも、話の種に、物見遊山で、接待として、デートコースとしてスタジアムを埋める。その結果、本来は世界レベルで見ればまだまだの選手が、日本では持ち上げられ、下にもおかぬ扱いを受けるのだ。

木村元彦氏に、日本の放送局のスタッフは述懐したらしい。

ミックスゾーンで無視して素通りする、きちんと自分の言葉で話そうとしない選手に対しても、広報に食ってかかるだけで本人に大人の態度で諭そうとしなかった。

宇都宮鉄壱氏も、選手のミックスゾーンでの振舞いについてこう書いている

 これまで、ぶ然としたままミックスゾーンを強行突破していく選手に対して、私のみならず少なからずの同業者が、何とも苦々しい思いを抱いていた。「すみません、今日は勘弁してください」という一言でもあれば、まだこちらも納得できるのだが、それすらもない。「メディアにしゃべらないのは、格好いいこと」と勘違いしているような選手が、ごくごく少数派ながらも存在していたことは、実に残念であった。

どうだろうか、何か今回の宿舎での振る舞いと、似た匂いを感じないだろうか?誤解しないで欲しいが、私は選手個人を責めているわけではない。構造として、日本のメディア、広告ビジネス、そしてこの4年間には協会にも、「スターシステム」が蔓延し、それが選手達に悪影響を及ぼすだろうことは以前から指摘されてきた。世界レベルではまだ何も成し遂げていない選手達が、ちやほやされ、メディアや昵懇のライターから「きっと世界ベスト4にいける!」などと持ち上げられ続けていたらどうなるのか。平氏はそれを宿舎での振る舞いに見たのではないか。


ナショナリズムの希薄な私達

さて、もう一つはナショナリズムである。これは非常に微妙な話題だろう。私は政治的にどうこう言おうと思っているのではない。それはこのBLOGのテーマではない(笑)。ただ、サッカーはそれと密接に関係し、世界の多くの代表選手は「国を代表している」という意識を強く持ち、戦っているということは事実だと思う。だからこそ、W杯はあれほどの規模の「お祭り」となるのであるし、サポーターの「後押し」が選手の力にもなるのだろう。そして、言うまでもないが日本の若者達にその意識は希薄だ。

例えば、韓国代表の選手達は、それをよく体現する事例と言える。日本よりも強く国家意識、民族意識を持ち、だからこそ真っ赤に染まったスタジアムでの「テーハミング!」が強力に選手の力になる(個人的にはあの光景は、あまり好きではないが)。日本でも、代表サポーターの力は選手の後押しになっていると思いたいのだが、宮本が言うように、日本チームは「ホーム・ディスアドバンテージ」を感じるくらいであって、少なくとも韓国代表の得ている力とはだいぶん違うのではないだろうか(クラブレベルでの話は別だが)。

日本の若者には(若者だけではないが)、「国家意識」は希薄だ。そういう教育で育っているし、社会全体の風潮もそうであろう(私はそれがいいとも悪いとも言わない)。したがって「日本を代表して戦っている」という意識も希薄にならざるをえない。サポーターの後押しをそのまま力に変えられる選手としては、代表レベルではカズやゴンが最後なのではないだろうか?2002年のロシア戦、終盤でゴンが投入されたのは、横浜スタジアムの観衆の力をピッチに注ぎ込むため、という側面も大きいだろう。

それは彼ら二人がちょっと「特別」だから、でもあるが、やはり彼らが「黎明期を背負っていた」からでもあるだろう。日本サッカーのプロ化の初期には、「日本のために」は難しくても「日本サッカーのために」と考え、行動できる選手達がたくさんいたのだと思う。それは今のなでしこジャパンの置かれている状況とも似ているだろう。また野球選手が、WBCにおいて「日本野球のために」と一体になったことも近いのかもしれない。しかし、日本サッカーはもう黎明期ではない。


「私達」がいかに勝利を希求するか

98年までの日本代表には、初出場という「悲願」があった。「出場して日本サッカーを盛り上げなくては」という問題意識があった。今はそれがなくなってしまっている。そのことが、「日本サッカーのために」という力を沸き立たせにくくしているのだろう。金子達仁氏は「敗因と」の中で、「そうした目標設定がなかったこと」こそ、06年のワールドカップの日本代表の闘いが私達の胸を打たなかった原因だ、としている。では、協会が「ベスト16が目標です」と宣言しておけば、それは解決できたのだろうか?

そうではないだろう。上記の時代は初出場が「ファン、サポも含めた日本サッカー界全体のコンセンサス」だったからこそ、選手がそれを体で感じることができたのだ。協会が「ベスト16が目標です」と口で言って、それがコンセンサスになりえるのか?私達全体が「W杯で本気で勝ってほしい」と思う、心から願うことがないと、そうはならないだろう。「私達」というのはコアなサポのことだけではない。日本全体が、という意味だ。

1998年の時から、メディアの罪は大きい。「やったぜ岡ちゃん、1勝1敗1分いける!」「トルコは弱い、ベスト8見えた!」「自由にすれば、ベスト4も手が届く!」代表バブルを拡大させるための、自分達の力を省みない煽りが、日本全体を勘違いさせている。まずはここを正すことだろう。そのためには一回、「代表バブル」を消滅させることが必要だと、個人的には思う。代表のスタジアムがデートコースになっている現状では、「なんか、勝ってくれるといいなあ」以上のものにはならないだろう。

本来的には「歴史」が必要なのだと思う。何度挑戦しても跳ね返され続けるような、そうした苦闘の歴史があってこそ、そこでの1勝を、心から願うようになるのだろう。あるいは非常に大局的に考えるならば一度(考えたくもないのだが)、W杯に出られない、というようなショックも必要かもしれない。失ってはじめて、人はそのものの価値を知る、という。06年までは、日本がW杯に出られないと日本サッカーの火が消える、という心配があったが、ここまでJリーグが根付けばもう大丈夫だろう。


長期的取り組みと「チーム・マネジメント」

結論を言えば、まずはコマーシャリズムに汚染された「代表バブル」による勘違いを正す、正常化すること。そして、日本人全体がW杯での勝利を心から願い、その価値を重んじること(貧乏になることや、今以上にナショナリスティックな日本になることは、とりあえず選択肢から外す)。後者には時間が必要だが、前者はオシム監督が手をつけ始めていることでもある。前掲、スポナビでの宇都宮さんの記事にもあったが、「スターシステム」がいかにチームに害を与えるかを知り抜いている監督によって、代表の環境は「正常化」されつつある。

また、オシム監督は外出禁止、サンダル履き禁止、移動中の携帯、ゲーム禁止などを打ち出しているという。欧州の監督にはピッチ外でも規律を重んじる監督は少なくない(例えば元大分ベルガー監督)から、これが日本の若者の現状を観察してのことかどうかわからない。が、少なくとも、平氏の観察したようなチームにしないためには正しい方策の一つと思える。さらには、厳しい環境にあえて触れさせメンタルを養うためか、シェフ帯同禁止や移動用のチャーター便の廃止などを打ち出している。そういえばナイジェリアワールドユースの時も、現地のものを食べるように指導した監督がいた。

これらの取り組みを見ていると、「現状の選手でも、やり方によっては『平氏の観察したようなチーム』にしない」ことは不可能ではないように思える。少なくとも、その方向へ向かう「チーム・マネジメント」を採ることは可能であろう。中長期的な取り組みによって「豊かな社会からでも、強靭な精神を持ったサッカー選手を産む」ようにすることは必要なことだ。と同時に、現状の選手達を、そういう戦う集団に鍛え上げていくこと、そのためにさまざまな手段を講じていくこともまた、必要なのだろうと思う。

オシム監督の取り組みが、奏功すること、そして日本代表がまた「闘う集団」になっていくことを、願ってやまない。

それではまた。

04:09 PM [2006総括] | 固定リンク | コメント | トラックバック(3)|

January 15, 2007

事前プランあっての総括では

本題に入る前に一言書評 「6月の軌跡」増島みどり著

ネット上では評判がイマイチの増島さんですが、98年フランスワールドカップの後、選手はほぼ全員、さらにスタッフもシェフや栄養士の方まで網羅してインタビューしたこの本は、実に良質な仕事といえると思います。私は最近、ドイツW杯の日本代表のビデオを見直して悲しい気持ちになったときにこれを読み返したのですが、なんだか癒されてしまいました。例えば、

小野剛氏 「戦術練習は22回、徹底してプログラムを作りました」
名波浩 「このチームの一員だったことを俺は感謝している」
岡野雅行 「レギュラーとサブの間の大きなギャップというのはあったと思います。でもそれを態度に出したり、嫌な方向へ持っていくメンバーはいなかったと思う。自分はこの代表が大好きですし、すごく誇りを持って来ました」

なぜでしょうね。3戦全敗で06年以上に結果が残らなかったにもかかわらず、選手やスタッフの談話が、やけに心に響くんです。6月の勝利の歌を忘れないもそうですが、一つの集団としてのバランスがいいということなのでしょうか。もう昔のことではありますが、温故知新が癒しになる、という意味で、お奨めできる一冊です。


ちょっとした誤解

さて、dorogubaさんとのトラックバックでのやりとりですが、大体議論は収斂したように思います。お互いの立場の違いもわかってきましたし、双方の意見も明確になったでしょう。後は少しだけ、補足ということではないですが、お返事をしておきたいと思います。

dorogubaさん: オシム日本代表の方向性については「アジアカップ」以降に考えたほうがいいのかもしれませんが、そもそも気になるのは「正常化」「正常な方向」というのを、誰が何をもって定義するのかということですね。

この文章以下の部分では、「私が高い位置で奪うサッカーが『正常』であると考えている」と読まれていると思うのですが(コメント欄のKINDさんもそうですね)、厳密には私は「正常化」とは、「ハードワークと戦う姿勢」に対して使っています。ドイツ大会では、日本代表は「「ハードワークと戦う姿勢」において強豪に比べて劣っていた。私はこの部分を「正常化」してくれることを望んでいる、ということです(ちなみに、「正常化」という言葉は、私の感想であり、協会のテクニカルレポートの言葉ではありません)。


それは制限になっているのか

守備では、システマティックな「プレッシング」が目立ったという指摘がありました。とはいっても、ラインをどんどん上げるというのではなく、どちらかといったら下がり気味のラインをベースに組織的なプレッシング守備を仕掛けていく傾向が強かったということです。フムフム・・http://www.yuasakenji-soccer.com/yuasa/html/topics_3.folder/06_itk_2.html

dorogubaさん: これはエーリッヒ・ルーテメラーの(ドイツ協会が組織したアナライズチームの)分析内容の一部とのことですが、この分析では日本サッカー協会のテクニカルレポートと比べて「高い位置」へのこだわりはないように読めます。

JFAテクニカルレポートでも、「オフサイドルールの解釈の変更により、ハイラインのチームは減った」ことは明確に記述されていますね。頻繁なオフサイドトラップによるハイラインの維持は、以前よりも減り、スペイン、ドイツ、ガーナなど少数派になりました。「下がり気味のラインを引いたチームが多かった」ということは、共通の認識といえましょう。違いは、「そこからの組織的なプレス」についてどのように記述するか、という点でしょうか。

私が「高い位置でのフィジカル・コンタクト数」に注目したのは、テクニカルレポート中の次のような記述によります。

1)今大会では受動的に守備をしていたら守り切れない。前線から相手に限定を加え、自チームが主導的にボールを奪っていくことが重要。
2)上位に進出したチームはボールに対して寄るだけでなく、-ボールを奪いに行くために体をしっかり寄せにいく守備を行っている。

特に2)には、「日本の感覚で『寄せている、プレスしている』と思っても、国際レベルではそれは制限にはならない」(ケット・シーの意見)ということも付け加えておいたほうがよいと思います。これはブラジル戦で、ブラジルの選手と中盤で距離を置いて対面した日本の選手が、まるでそこに「いない」かのようにパスで抜かれていくシーン(頻出していましたね・・・)でよくわかることではないでしょうか。見返したくもないのですが、例えば試合序盤だけでも、

7分: ロナウジーニョに対して中盤で制限が効かず、ロナウドへパスをされて枠内シュートを打たれたシーン。
11分: 同じくロナウジーニョに中盤で自由にパスをはたかれ、左サイドからロビーニョが持ち込んで枠内シュート。
15分: 中盤でロナウジーニョと日本選手二人が距離を置いて相対しているが、制限にならず、ロビーニョにパスを出されカカとのワンツーで枠内シュートを打たれたシーン。

というシーンが見られました。いずれも川口のファインセーブに救われたとは言え、ほぼ1点ものの崩され方です。どれもミドルサードで日本の選手がプレスに行って、ややルーズに距離を置いて相対し、「制限」ができなかったことからスタートしています。しかも、けしてロナウジーニョがすばらしいテクニックで中盤の日本人選手を「抜いた」のでは「ない」ことに注目したいですね。まさに、「日本の感覚で『寄せている、プレスしている』と思っても、国際レベルではそれは制限にはならない」ことの見本のような事例でした。

15分のシュートの直後には、スカパーでの解説の原さんが「ここら辺(DFライン)で対応するのはやっぱり難しいので、もう少し前でボールにアタックに行かないといけない」と言っていますが、現地で見ていた私も同感だったのです。

テクニカルレポートでは1)2)のような流れがあるため、(特にDVDのほうで)強豪が行った敵陣や高い位置での守備、攻撃の選手から奪いに行く姿勢、体の寄せなどについて、詳述しているのでしょう。それがないと守りきれない時代、というのは、理解できますね。私がカウントした高い位置でのコンタクト数も、それを裏付けていると思います。


ラインの高さとプレス

ところで、J-KET・BBSのほうにプリメーラさんから質問をいただきました。

「ラインが低くても高い位置から奪いに行くプレス」というと、どんなイメージなんでしょうか?高い位置から行こうとすると、ドイツのようにラインを上げるほうが普通のような気がするんですが?

確かにここは少し、はしょり過ぎた(笑)かもしれません。

オフサイドルールの解釈の変更により、頻繁なオフサイドトラップでハイラインを維持することのリスクは大きくなりました。その結果、そういうチームはドイツ、スペイン、ガーナなど、少数派になっていったと思います。テクニカルレポートにもありましたが、「低いラインをベースにするチームが多かった」ということになります。

しかしでは、低いラインでいわゆる「引いて守ってカウンター」をするかというと、高いレベルではもうそういう「受動的守備」では守りきれない、ということがあります。そこで

リスクが増えたハイラインの維持はしないけれども、引き過ぎることはせず、ある程度の高さにラインを維持して、ミドルサードからプレスを始めるチームが多かった

ということになるのだと思います。

Press「最終ラインは低くても」という書き方では、いわゆるべたべたに引いて守ることを書いているように読めてしまいますね。もちろんそれでは、高いレベルで勝ち上がっていくことはできませんから、どちらかというと「プレスの位置、状況が最終ラインの高さを決める」という記述が正しいかと思います。逆に言えば、プレスがかかっていないチームはラインをどんどん下げざるを得ないということでもあります。この辺は鶏と卵ですね。

左の図は、ポルトガルvsオランダ戦において、フィーゴが相手陣内で激しくプレッシャーをかけに行っている時のポルトガルDFラインの位置を図示したものです(1/17/15時追加)。エンジがポルトガル、白がオランダ選手の配置を示しています。DFラインは下がりすぎず、ほぼミドルサードの下限くらいに位置していますね。これは一例ですが、やはり「コンパクト」であることは基本的にはどのチームも志向していて、プレスがかかっていれば下がりすぎず、中間くらいの高さのラインを取っていました。

また、「高い位置から」というのは「ミドルサード以上から」ということでもあるのですが(例えばポルトガル、メキシコはディフェンディングサードよりもミドルサードのほうがコンタクトが多いですね)、同時に「FWから」プレスに行く、ということでもあります。それも、ただ方向を限定するだけの守備ではなく、しっかりと体を寄せて奪いにいく守備も多くしている(ちなみになぜポルトガル、メキシコを選んだかというと、日本と体格的にかけ離れているわけではないので、日本の参考になると思ったからです)。そうでないと、高いレベルでは守りきれなくなっているのだ、ということですね。


協会のPDCA

ここから再びdorogubaさんへのお返事に戻ります。

dorogubaさん: もちろん監督を選ぶのは協会の仕事ですし、その監督の人選に置いて協会は「サッカースタイルや戦術」を考慮することになるんでしょうけど、「サッカーのスタイルや戦術」を決定するのはあくまで監督で、それをサポートするのが協会の役目であると思うんですよね。

個人的には、これまでもなされてきたように、技術委員会がテクニカルレポートなどで、日本代表の方針(≒スタイル)を定めていくことが正しいと私は思っています。そして、それが育成の場にまで下りて行き、世界大会での課題がフィードバックされていく。これまでの日本の発展はそのようにしてできたことでしょう。また例えばフランスなどの強化も、大まかに言うと似たような形で進んできたのではないかと思います。

そのような強化の方針があれば、それに沿って監督の人選をしていくのがノーマルでしょう。そうしてこそ、PDCA(Plan-Do-Check-Act)ができていくのだし、4年間が一回きりの経験に終わらず、螺旋形に発展していける「礎」となるのだと思うのですね。方針がなく、スタイルについてまで監督に丸投げであっては、それができなくなってしまいます。

余談ですが、だからこそこの4年間がおかしな状態だったと思っています。会長の独断によって、Planなしに就任してしまった監督は、そのためにCheckもActもできない状態になっていた。評価する機関もなくし、メディアにも評価をさせない圧力をかけた。そしてそれがドイツ大会の敗退(の一因)につながっていったのではないか、と私は思いますね。またそれが故に、協会は事後のCheckもActも放棄している/せざるをえない、のかもしれません。

dorogubaさん: もちろん、雇った監督の仕事を分析して評価して次に生かすというは必要なことであると思いますが、その分析や評価を「1つの戦術(たとえば、高い位置とかプレス)」からのみ行うのは間違いである気がする次第です。

誤解のないようにお話しておきますが、協会はテクニカルレポートにおいて「一つの戦術」によってジーコジャパンを評価することはしていません。小野剛氏が「大会の趨勢」を語り、小野、田嶋両氏が「日本代表のパフォーマンス」を語っている。私がそれを読んで、「なぜその両者をリンクさせないのか?」という疑問を書いたのが、「2006大会の趨勢と日本」というエントリーでした。むしろ、協会は「ジーコジャパンを評価する」ことを、とことん避けているように私には見えます。

dorogubaさん: だって、そもそもKETSEEさんが正常だったとおっしゃる「98年、02年のスタイル」って、協会のスタイルというよりも加茂&トルシエのスタイルだったわけで、「高い位置&プレスサッカーだから」彼らを監督にしたわけではないと思うんで。

トルシェ監督就任時には、その時の強化方針にそった監督ということでフランス協会と相談し、選定したという経緯があったようです(いわゆるベンゲル推薦は、その「後」のことらしいですね)。日韓大会後、ジーコ監督に決める前に技術委員会がリストアップしていた候補者たちも、強化方針に基づいて選ばれた監督だったと思います。鶴の一声でジーコ監督になる前は、けっこう協会は(PDCAの視点から見て)まともなことをやっていたようですよ。

テクニカルレポートにある通りなら、1年前に日本の課題を分析し、方針を定めていたからオシム監督に決定することができた、とのことです。個人的には、またいくらかはまともな方針になり、それに基づいた選定になったように思います。つくづく、「鶴の一声」がなかったらなあ、と思えてなりませんが、今の協会はその問題を隠蔽しようと必死になっていますね(おっと、以上の文脈にある「まともなこと」は、ケット・シーの考えるまともな(PDCAのある)路線、ということですので、違う考え方も尊重いたします)。

個人的には、西部さんあたりが小野剛氏にインタビューすると、多少はまともな日本代表のドイツ大会の総括が聞けるのではないかと思います。サッカー批評あたりでやってくれないかなあ。

そろそろこのお話もまとめでしょうか。それではまた。

07:39 PM [2006総括] | 固定リンク | コメント | トラックバック(0)|

January 10, 2007

高い位置から奪いに行くプレス

みなさまあけましておめでとうございます。前回のエントリーは続き物でしたので、ご挨拶は抜きにさせていただきました。ここであらためて、日頃のご訪問に感謝をささげ、新年のご挨拶に代えさせていただきたいと思います。今年もどうぞよろしくお願いします。

「2006大会の趨勢と日本(テクニカルレポートより) 」は結構な反響をいただきました。やはり、2006年のあの悔しさに対するきちんとした総括は、どうしてもやっておくべきなのだな、と感じています。悔しい、思い出したくないですけれども、協会がそれを見ないようにしているのだから、なおさらですね。

さて、前回のエントリーに関し、dorogubaさんからトラックバックをいただきました。非常に興味深いご指摘がありますので、ここでお答えをさせていただきたいと思います。

dorogubaさん: 問題は、高い位置でのフィジカル・コンタクト数なんでしょうか?

私は、ドイツ大会でのジーコジャパンには多くの問題があったと思っています。dorogubaさんが文章中でおっしゃっている「局面局面での判断力の欠如」とか「試合運びのまずさ」とかも問題でしたでしょうし、「敗因と」の中でメインテーマとなる、攻撃陣と守備陣の考え方の「溝」もそうだったでしょう。またフィジカル、メンタル両面のコンディショニングも拙いものでした。さらには、プレスをかけられると機能しなくなるパス回しや、ぽっかりと空くバイタルエリアなど、戦術面も問題でした。それらについてはBLOGで、あるいはJ−KETでずいぶんと考察しているのですが、どれが「もっとも大きな問題」であり、「敗因」だったのかは、意見が分かれるところだろうと思います。

私が前回のエントリーでフィジカル・コンタクトの位置に注目したのは、次のような(テクニカル・レポートでの)文脈があってのことです。

1:この大会での勝ち抜いた国は、「高い位置から奪いに行くプレス」をしていた。
2:そのために「全員の高い技術、ハードワーク、闘う姿勢」が必要とされ、それがないと勝てない時代になった。
3:日本とそういう国との差は、「全員の高い技術、ハードワーク、闘う姿勢」という当たり前のところの差である。

この文脈内で、1、2、3の問題をチェックするために、フィジカル・コンタクトの位置と数をカウントしてみたのです。もちろんそれ「だけ」が重要だとは思っていませんが、一つの指標として、やはり実際に高い位置でのコンタクトは、例えばポルトガル、メキシコでも日本と比べると多く、テクニカルレポートにあるとおり、「(最終ラインは低くても)高い位置から奪いに行くプレス」がドイツ大会の趨勢であるのは間違いがないところだと思います。そして日本は、それとは違うサッカーになっていた、ということが数字にも表れています。

しかし、私は「それが日本の最大の敗因だ」とは思っていませんし、書いてもいません。日本が世界の趨勢と違うサッカーをしても、それで勝てるならかまわないのです(勝てませんでしたが)。ジーコジャパンの問題、敗因に関しては、先にあげたように多岐にわたるものがあり、そのどれもがそれぞれ重要だと思います。ただここでは「テクニカルレポートにある世界の趨勢と違うサッカーであった」ということを確認しているに過ぎません。

ちなみに、私は以前から書いていますように、ジーコジャパンでは「高い位置から奪いに行くプレス」の整備は無理だと思っており、その意味では「コンフェデ・ブラジル戦の後半」にできた、リトリート・プレス(造語)を行うのがよいと思っていましたし、そう書いていました

その意味では、クロアチア戦での「リトリート指示」については、遅きに失してはいるものの「間違っていない」とは思います。ただ、W杯に向けた合宿を始めてから4バックは練習していなかったと聞いていますし、実際試合でも、相当の崩されたピンチを作られています。クロアチアが暑さでやられていたので助かりましたが、前半にはPKも取られましたし、急造の感は否めない、うまく機能したとはいえない、と思っています。


ハードワークと闘う姿勢

dorogubaさん: 「ハードワーク」と「高い位置」の結びつけがちょっと強引なところがあるような気がしたんで。

私は上記テクニカルレポートの文脈の1、2、3が不可分だと考えていました。ドイツW杯の趨勢に関する文脈内では「フィールド全域でのハードワークが必要」と読めたからです(「ハードワーク」は「運動量」も含むと考えました)。したがって、フィジカル・コンタクトの位置をカウントすることで、それらを一つにまとめて検証したつもりでした。が、確かに「高い位置でのフィジカル・コンタクト数は、高い位置で奪うプレスの指標にはなる」、けれども「ハードワークや闘う姿勢の指標には完全にはなっていない」とは言えます。

ですので、全体の論旨は変わりませんが、私の上げたデータは「日本が(大会の趨勢である)高い位置で奪うプレスをしていない」ことの証左だとして、前回のエントリーに付け加えたいと思います。ご指摘ありがとうございました。

しかしながら、上川主審も述懐し、かつテクニカルレポートで書かれているように、「日本はハードワークや闘う姿勢において、強豪国に劣っていた」のも確かだと思いますし、それが大きな敗因の一つであるとも思います(個人的意見です)。その点では(それ以外の点でも)、選手起用、組織作り、メンタル/フィジカルコンディションの整備において、ジーコ監督の責任は非常に大きく、それにまったく触れないテクニカルレポートには、大きな不備があると考えています。

Japancontact_1

ところでこの図は、三代の日本代表が一試合の中で、フィールドのどの位置でフィジカル・コンタクトを敢行していたかをピッチ上に図示したものです(誤りがあったので図を訂正しました:1/11/16:40pm)。緑から赤に行くにしたがって多くなっています。トルシェ日本についてはロシア戦、いわゆる最終ラインの位置の修正が選手によって行われ、ラインが低くなっていると喧伝された試合のものです。もちろん、コンタクトの数や位置はさまざまな条件によって変わり、それだけが重要なのではありません。しかしこうして図示してみると、いろいろなことが結構わかりやすくなるな、という感想を私は持っています。

dorogubaさん: それをもって「正常な方向」と結論づけるのもどうかなって思いますし、日本代表の進むべき道はそこではない気がします。というか、オシムが向かっているのは「そこ」なんでしょうかね?

「高い位置から奪いに行く」ことについては、オシム監督のチームは、ジェフの時からそれを目指しているように私には思われます。特にボールを失った瞬間の守備が強く意識付けられ、攻撃の選手も自分から奪いに行く姿勢が強い。それはガーナ戦でのフィジカル・コンタクトの位置のカウントでも現れていますね。むしろその姿勢が強すぎて後ろにちょっと不安があり、ジェフは失点の少なくないチームでした。代表ではどうなるか、気になりますね。

また、「全員のハードワークと闘う姿勢」については、オシム監督はそれを最低の前提条件としているのではないでしょうか?特に高い位置から奪いに行く時はそれが必要になりますが、そうでなくてもそれは「当たり前のことの徹底」であって、本来はことさらに取り上げるようなことではないと言ってもいいくらいです。

しかし、テクニカルレポートではそれが「ドイツ大会の日本ではできていなかった」とされていますし、私も同感なのです。ですからまずは、その部分を「正常化」し、それをステップボードとしてその先へ行こうということではないかと思っています(その「先」がどこかというのは興味深いですが、それはまたいずれ)。「走らなければサッカーにならない」「一人でも守備をしない選手がいると勝てない」というのは、オシム監督の口癖ですよね。

dorogubaさん: ジーコ日本代表のFWは守備してませんでしたか?

していましたね。高原はブンデスリーガでは、「守備し過ぎるから点が取れないんだ」と批判されたりする選手ですし。ただ、フィジカル・コンタクトをした位置のカウントを見ていただいてもお分かりのように「多くなかった」ですね。また、ジーコ監督がFWにそのような指導をしていたり、指示をしていたか、という情報は、私は寡聞にして知りません(していたのかもしれませんが)。どちらにせよ、大会の趨勢に比べると、多くなく、組織だってもいなかったと私は思います。

dorogubaさん: オシムのマンマークの3バックの由来?

オシム日本は「3バック」ではないのではありませんか?2CBプラス「阿部」で、敵が2トップなら阿部が下がって3バックになり、敵が1トップや3トップの時は阿部が上がって4バック(2CB)になるという、非常にフレキシブルなやり方ですよね。

さて、前回のエントリーは、テクニカルレポートに書かれた

A:「日本代表は(大会の趨勢である)高い位置から奪いに行くプレスをしていなかった/できていなかった」
B:「(これまでの日本代表ではできていた)連動したプレスは、ブラジル戦の前半以外できていなかった」
C:「ハードワークや闘う姿勢でも、強豪国に劣っていた」

という3点を考察したものでした。私がカウントしたデータは、このうちのAのポイントを補強するものだということです。とはいえ、考察全体の趣旨は変わりません。そしてオシム監督は、AとCをやはり不可分のものとし、強化しようとしているように見えます。攻守の切り替えがますます早くなっていく現代のサッカーでは、それは正しいことだと私には思えますし、それが成功することを心から祈っています。

それではまた。

10:40 PM [2006総括] | 固定リンク | コメント | トラックバック(1)|

January 06, 2007

2006大会の趨勢と日本(テクニカルレポートより)

日本代表テクニカルレポートのうち、小野剛氏による2006年大会全体を俯瞰した「大会全般」「技術・戦術分析」は、それなりに読みでがあり、興味深いところもある。しかし同時に、小野氏自身は触れていないが、ジーコジャパンの問題点のえぐりだしにもなっていると思う。前回に続いて、ざっと見ていこう。

2002年日韓大会では、どのチームも守備を高度に組織化していたために、ボールを奪ったらそれが整う前に攻撃しきってしまう、いわゆる「ダイレクトプレー」からでないと得点が難しく、その割合が非常に多かった。しかし2006年ドイツ大会では、それが減っていた。各チーム、基本的には守→攻の切り替えの時点では、ダイレクトプレーを狙っているにもかかわらず、である。

ボールを獲得してから10秒以内の得点は今大会が約34%
2002年大会が約53%

その原因について、本書では、以下次のようにロジックが立てられる。

カウンターからの得点が減少
         ↓
カウンターをさせない守備が徹底されていた
         ↓
全員の守備意識、守備能力が非常に高く、
ボールを失った瞬間に、チームとして相手にカウンターをさせない守備を行っていた
         ↓
前線の選手も含め、全員に徹底したハードワークが要求される守備

ここから少し引用しよう。

今大会は、サッカーがさらに洗練されてきて、甘さ、隙があったら勝てない、甘えが許されない、サッカーがさらに進化した大会であったと言える。全員が、高い技術、闘う姿勢、ハードワークを高いレベルでベースとして持っている国のみが勝てる。世界のサッカーはそういう段階に突入している。

勝つチームは、何かを免除されるスーパースターはもはや存在しない。たとえば守備が免除されハードワークをしなくてよい選手がいるようなチームは、よい成績を残していない。2~3大会前だったらスーパースターと呼ばれたであろうタイプの選手は、今大会では通用しなくなっているのである。

これについては、「技術・戦術分析」のなかの「Ⅱ.フィールドプレー 守備編」でさらに詳しく触れられている。

1. ボールを奪いに行く姿勢: 今大会で示された守備の傾向は、相手の攻撃を遅らせたり、バイタルエリアへの進入を阻止したりするだけでなく、明らかに前線から相手の攻撃に制限を加え、チームとして意図的にボールを奪い、攻撃に結び付けていくというものであった。

これらは私も、ピッチの上に実際に見て取れたことだと思うし、同感でもある。現在のサッカーではあのバルセロナのエトーでさえ、しっかりと守備をしているのだ。FWの守備を免除するようなチームは、ベスト8に進出するような国にはもはやないと言っていいだろう。さらには多くのチームで、最前線の選手までもが「遅らせる」だけの守備ではなく、体を張って奪いにいく守備をしている。オフサイドルールの変更によりハイラインのチームは減ったのだが、それでも強豪チームはいわゆるリトリート(下がって待ち受ける守備)だけではなく、高い位置から全員で「奪いにいく」プレスをしているのである。それがないと勝てない時代になってきた、ということなのだろう。


大会の趨勢においていかれた日本

ひるがえって日本はどうだっただろうか。

小野剛氏は、田嶋氏よりは客観的に、日本代表の戦いぶりを記述している。

日本はボールに近づくが、チャンスがあれば奪える距離までは寄せきれていない。そのため相手に対してのプレッシャーになっておらず、シュートをうたれる、あるいはクロスを入れられる場面が多かった。

日本は「連動したボールへのプレス」ができておらず、守備面において「大会全体の趨勢」に追いついていないチームになっていた、ということだ。これはドイツ大会だけではなく、ジーコジャパンの軌跡をつぶさに見ていれば、ほぼ誰にもわかることだったのではないだろうか。アジアカップやアジア予選でさえ、前線からのプレスが奏功したシーンは少なく、下がって待ち受ける守備で闘っていたジーコジャパン。世界レベルで突然それができるようになるはずがあるだろうか。

この点において、前回飛ばした田嶋氏の守備面での分析を見てみよう(日本代表テクニカルレポート:5章「日本代表報告」)。

7)コンフェデ杯では「連動したボールへのプレス」ができていなかった
8)W杯ブラジル戦の前半はできていた

これは興味深いものだ。なぜなら「オーストラリア戦やクロアチア戦は?」と聞きたくなる書き方だからだ。実際、サッカー批評 Issue32(2006)「われわれは惨敗を直視する」の中の「田嶋幸三 戦後の述懐」では、田嶋氏自身「クロアチアとオーストラリアではそれができなかった」と語っている。私もブラジル戦の前半はそれなりにできていたと思う。しかし、3試合のうち45分間だけ取り上げてどうするのか。そこでの問題は「90分持たなかった」ことではなく、「オーストラリア、クロアチア戦ではできなかった」ことだろう。できていた試合、時間帯は少なかった。その原因は何なのか。

7)コンフェデ杯では「連動したボールへのプレス」ができていなかった
8)ブラジル戦の前半はできていた
9)90分持たなかった(チェルシーやアーセナルはできている)

お分かりだろうが、ここでひとつのすり替えが起こっている。とにかくジーコ監督の指導の話を一切しないようにするためか、ブラジル戦だけに話を絞り、「後半にはできなかった」ことを「日本人全体が持っている課題」のように言ってしまう。そうだろうか?過去にそれを90分やり通したチームはなかっただろうか?日本代表は、常にああいう試合をするチームだっただろうか?何かをわざと見ないようにしていないだろうか?

14)守備をしっかりし、連動したプレッシャーをかけることは日本ができていたことで、今後徹底してやりたい
(西野、山本、田中、トルシェ、岡田)

田嶋氏はまさに、「連動したボールへのプレス」は、上記の監督が指導したこれまでの日本代表では「できていたこと」としている。私もまったく同感である。しかし、オーストラリア戦、クロアチア戦では「できていなかった」のだ。これまでの日本代表でできていたことが、05コンフェデ杯でも、またこのW杯の83%の時間でも「できていなかった」という分析。しかしそこに「なぜできなかったか」は出てこない。それが出てこなければ分析ではないし、今後にも生かせないだろう。何をかいわんやである。


全員のハードワーク、闘う姿勢


さて、4章の最後で小野剛氏は、

(日本と)勝った国との差は、最終的な部分の差ではなく、「当たり前」の部分の習慣化、徹底のところの差であったと考える。勝った国が持っていた全員の高い技術、全員のハードワーク、全員の闘う姿勢というベースの部分を、もっとレベルアップする必要がある。

としている。これは正しいと思う。例えば、守備時にピッチ上のどこでフィジカル・コンタクトを行ったかをカウントしてみると、次のようになる(ヘディングは「奪いにいく守備」とは関係ないと考え、除いてある)。 




-アタッキングサードミドルサードディフェンディングサード
日本代表2954
ポルトガル代表104845
メキシコ代表155235

これはオーストラリア戦の日本代表と、オランダ戦のポルトガル代表とで比べてみたものだ。背の高い敵という点で(オーストラリア/オランダ)共通し、終盤に押された試合内容が近いと思い、例に取り上げてみた。ピッチを縦に3分割し、自陣に近いほうをディフェンディングサードとする分類を使っている。

一目瞭然、高い位置(ミドルサードからアタッキングサード)で日本代表がフィジカル・コンタクトを敢行した数が少ないのが、はっきりとわかるだろう。(もちろん、コンタクトなしでも「奪える」守備はあるが、それも日本の試合では少なかった)。参考までに、アルゼンチンと戦ったときのメキシコ代表のデータも加えておく(90分間)。W杯で主審を務めた上川氏が、「日本が一番闘っていなかった」と語り、私もそう考えたのだが、それは技術委員会の分析でも、またあらためてデータ化してみても、よくわかることなのである。

日本は言うまでもなく、個人の能力では欧州、南米の強豪国には劣るだろう。また体格、フィジカルコンタクトの能力では、アフリカの強国にも一歩譲ると思う。そういうチームが、「全員のハードワーク、全員の闘う姿勢」という部分でも劣っていたのだ。勝てるわけがあるだろうか?

技術は一朝一夕には伸ばせない。確かに育成を待たなくてはならない部分ではあろう。しかし、「ハードワークや闘う姿勢」はそうなのか?それは、田嶋氏自身が言うように、フランス大会や日韓大会(どちらも酷暑の大会であった)の日本では「できていたこと」、むしろ誇るべき美点でさえあったのではないだろうか?私たちは、足の骨が折れてさえ最後まで走る選手を、知っていたのではないのか?方針や指導さえ間違っていなければ、それはドイツ大会でもできたことだったのではないか?

私たちはずっと、ジーコ監督の組織作りの能力が高くないこと、特にディフェンス面で、およびプレスの指導の面で低いこと、それにより日本代表の多くの問題が発生していることを指摘してきた。今回専門家である協会の技術委員会も、「ドイツ大会の日本代表は、多くの時間帯でプレスがうまくできていなかった」ことを公式に認めた(まあ認めざるを得ないだろう)。私たちからすれば、それはずっと前からわかっていたことであるが、田嶋氏も「そういう分析をしていたから、1年前にオシム監督に決めることができた」と語っている。ああ、その言葉の通りなら、1年前にオシム監督に代えてくれていたなら、というのは、あまりに悲しい想像ではある。


回り道は終わった

そう、「全員のハードワーク、闘う姿勢」というキーワードが、オシム監督ほど似合う指導者はいるだろうか?全員が走り、マンマークし、体をぶつけ、高い位置でボールを奪おうとし、奪えばどんどんリスクチャレンジして攻撃参加していく。この部分で、オシムサッカーは98年、02年に「できていたこと」を正当に継承すると言えるだろう。特に、前線の選手にまでマークをすることを要求するやりかたは「敵ボールホルダーを早く、高い位置で捕まえる」ことになり、今大会の趨勢である「カウンターをさせない守備」にもつながってくる。以下は参考でしかないが、オシム日本vsガーナ戦でのフィジカルコンタクトのポイントを見てみよう(ジーコ日本代表はオーストラリア戦)。




-アタッキングサードミドルサードディフェンディングサード
ジーコ日本代表2954
オシム日本代表135038
メキシコ代表155235

もちろんこれはあくまでも参考にしかならない。6人交代できる親善試合と本番は違うし、夜の試合と昼の試合も違うだろう。力試しの試合と、本番中の本番でどちらが慎重に行くべきかという問題もある。また、4年間の集大成であり、1ヶ月におよぶ合宿をこなした後の試合と、就任してからまとまった強化期間が取れず、たった5試合目という試合では、いろいろなことが違うのは当然である。しかし、試合を見てみれば、多くの選手が高い位置から奪おうとし、ファウルも辞さないプレーをしているのはよくわかる。すくなくとも、そうしようという意欲はこのデータからもわかるだろう。

私がオシム監督の方針に、おおぐくりで賛成なのは、このような論拠による。ただし、その守備戦術は日本代表ではまだまだ未完成だろうと思う。これまでの試合でも見てきたように、最終ラインのマンマークと、「奪いにいく守備」が連動していないシーンはままあり、このままでは真の世界レベルと戦うことはできないだろう。それでも、「全員にハードワークを要求し、守備を免除する選手を作らない」ということに、オシム監督はすでに手をつけている。オシム監督の「走らない選手は使わない」という宣言、ドイツワールドカップでの、あれほどのスーパースターたちがあれほどひたむきに、泥にまみれ、体を投げ出して守備をしている姿を見れば、日本がまさにオシム監督の言うような方向へ進まなくてはならないことは、誰にも自然と理解されることではないだろうか。

遅まきながら、また協会の責任逃れをよそに、オシム日本はようやく正常な方向へ進み始めた。2007年はその進歩が着実で、少しでも先に進めるようになること、そして邪魔をしようとする勢力が現れないことを、願ってやまない。

それではまた。

01:10 AM [2006総括] | 固定リンク | コメント | トラックバック(1)|

December 29, 2006

テクニカルレポートを考える

日本代表テクニカルレポート(DVD&ブックレット)を購入して読了した。先日紹介した「敗因と」でも、「今後の羅針盤たりえない」と評され、大住良之氏には、「失望以外の何ものでもない」、牛木素吉郎氏には「安直で無責任な敗因分析」」と切って捨てられるこのレポートだが、田嶋氏の「日本代表報告」以外のところには興味深い部分もある。小野剛氏が、大会の趨勢を読み、考察している部分の分量のほうがずっと多いのだ。

今回は「書評」というわけではないが、このテクニカルレポートの「失望」と「興味深いところ」を両方見てみたいと思う。 
 
 

「失望」に関しては、大住氏はこう書いている。

田嶋幸三専務理事(前技術委員長)によるその第5章「日本代表報告」は、無責任極まる、すり替えと自己弁護にほかなりません。

私もこれには同意する。ドイツW杯での日本代表の、自分たちの問題に関する真摯な分析や反省がなく、あのような敗北を繰り返さないための提言にまったくなっていないからだ。これは、「自分たちの責任を認めたくない」という以上に、「川淵氏が独断で任命したジーコの問題点について言及できない」ことが原因だろうと私は想像する。組織人というものだ。同情を禁じえない。

第5章「日本代表報告」 田嶋幸三

「日本代表報告」の要点を以下にまとめてみよう。

1)日本の実力はオーストラリアより劣り4番目と分析していた
2)大会前の独特の雰囲気の中で、日本の実力を客観的に分析できなかった
3)ドイツ戦にピークが来てしまった
4)ドイツ戦の手応えで「受けて立つ」ようになってしまった

5)コンフェデ杯で課題は「フィニッシュの精度、高さ、1対1の玉際の強さ、コミュニケーション」と分析
6)オーストラリア戦を2-0にできなかったのが一番の敗因(フィニッシュ)
7)コンフェデ杯では「連動したボールへのプレス」ができていなかった
8)ブラジル戦の前半はできていた
9)90分持たなかった(チェルシーやアーセナルはできている)
10)高さがボディーブローのように効いてやられた
11)玉際の体のぶつかり合いも弱い

12)コンフェデ杯で分析した課題はすぐには解決できない
13)長期的に、ユース育成などで解決していかなくてはならない
14)守備をしっかりし、連動したプレッシャーをかけることは日本ができていたことで、今後徹底してやりたい
(西野、山本、田中、トルシェ、岡田)

15)ジーコが初戦が大事だといっていたのに、負けたのでダメージが大きかった

16)あらかじめこういう分析をやり続けていたからこそ、1年前にオシム監督に決めることができた

いかがだろうか、読んでうんうんと納得できるものになっているだろうか?すでに大住氏や牛木氏が突っ込みを入れているが、私もこの中にはいくつものすりかえ、責任逃れが含まれているように思う。次から簡単に見ていこう。

大きな疑問の残る考察

3)ドイツ戦にピークが来てしまった

「来てしまった」ってあなた、台風みたいな自然現象か何かのようにいわれても(笑)。もともとジーコジャパンのコンディショニングは、アジア1次予選初戦のオマーン戦や、暑熱馴化が不十分だったシンガポール戦でも、多くの人に問題視されていたことなのだから、そこは予測できたことのはずだ。

6)オーストラリア戦を2-0にできなかったのが一番の敗因(フィニッシュのことだろう)

これはおかしい。オーストラリア戦を見れば日本の3倍以上のシュートを放っているのはオーストラリアであり、「決定力不足」を嘆きたいのは彼らのほうだろう。日本はそもそも「決定不足」だったのであって、それを作り出すチームとしての戦いで負けていたというべきだ。確かにフィニッシュの精度は十分ではないが、それが最大の敗因というのは無理がある。

同じテクニカルレポートのP.59に、今大会の統計が載っている。それによると、「ペナルティエリア内のシュート」は大会全体の平均が一試合6.86本であるのに対し、日本代表は平均2.67本でしかないのだ。半分以下である。まあデータはあくまでもひとつの参考でしかないが、これを見ても「ペナルティエリアに入れていない」「決定機不足」なのがはっきりと現れている。


 ペナルティエリア内ペナルティエリア外
日本代表2.6710
グループステージ7.187.94
決勝トーナメント5.917.5
合計6.86 7.83

ただでさえシュート精度が低いといわれている日本が、ペナルティエリアに入れてさえいないのだ。これで点が取れる可能性はどれほどあったのだろうか?

守備に関する7)8)9)および14)の問題は非常に興味深いところだが、これは次回に送ろう。

10)高さがボディーブローのように効いてやられた

これは主にオーストラリア戦のことだろうが、その側面は否定できない。ただ、失点そのものは高さで競り負けたのではなく、こぼれ玉をぽっかり空いたバイタルエリアで拾われて決められたものだ。バイタルエリアがぽっかり空くのはジーコジャパンの宿痾(しゅくあ=前々からかかっていて、治らない病気)であって、1次予選初戦のオマーン戦から修正されない課題だった。また、ロングボールには動けるFWで「出所つぶし」をするのもセオリーなのだが、それもなかった。そういう部分の言及がないのはフェアではないだろう。

11)玉際の体のぶつかり合いも弱い

まあこれはその通りなのだが、それ以前に「ぶつかり合い」自体も少なかった。この点については次回に詳述するとして、ここでは「唯一うまくやっているのは中田ヒデと今野」と分析されているのが興味深い。

12)コンフェデ杯で分析した課題はすぐには解決できない
13)長期的に、ユース育成などで解決していかなくてはならない

ここが私が感じた「すりかえ」「責任逃れ」の最たる部分だ。さまざまな点において、ジーコジャパンに存在した問題を見ないようにしているか、見ていても、「それは日本人選手全体の課題」としてしまう。その間にある、今大会での戦術、指導、チーム作りに問題はなかったのか。そこをいっさい分析、反省しないで、果たして日本は先に進めるのか。別にジーコ監督を責めろと言っているのではない。この4年間取ってきた方針、やり方が正しいのか、修正するのか、そのためにも真摯な敗因分析(戦術面、運営面)が必要なのではないのか。なぜそれを放棄するのか。

まったく困ったものだ。それもこれも、ジーコを独断で選んだ川淵氏が居座り続けているから起こることだ。このゆがんだ言論空間を協会内に作っていることだけでも、彼の害はいまや非常に大きくなっているといわねばならないだろう。いい加減にして欲しいものだ。

しかし、前半の小野剛氏の「大会全般」「技術・戦術分析」「総括 日本代表の闘い」は、それなりに興味深いところもある。次回はその部分を見ていきたいと思う。

それではまた。

07:21 PM [2006総括] | 固定リンク | コメント | トラックバック(0)|

July 21, 2006

「個のチカラ教」の欺瞞

Image015エル・ゴラッソ272号に、「選手個々の成長という大前提」と題して、飯塚健司氏がコラムを書いています。日本サッカー再建計画シリーズと銘打たれたそれは、しかし恐ろしいほどの欺瞞に満ち、むしろ日本サッカーの再建の妨げにさえなるものだと私には思えました。その間違いを一つ一つ見ていきたいのですが、文章全体に疑問が満ちているので、非常に長文となってしまいました。休み休みでも(笑)、お読みいただければ幸いです。

敗退の理由は本当にジーコ監督の采配か

まず飯塚氏はこのように問題設定をする。そしてそれに対し「NO」と答える。私はここにすでに一つの詭弁が混じっていると思う。あるいは、故意の詭弁でないのならば、サッカーの監督という職業に対する根本的な無理解だ。彼はこのように書く。

ドイツW杯での日本代表は、結果はもちろん、内容でも不本意な戦いを演じた。なぜこの結果を招いたのか。(中略)なかでも、ジーコ前監督の手腕を敗因とする意見をよく聞く。長年、サッカーを取材してきたジャーナリストのなかにも、やはり監督の采配ミスを指摘する声がある。

ちょっと待って欲しいのだ。問題はここだ。

○ジーコ前監督の手腕を敗因とする意見
○やはり監督の采配ミスを指摘する声

この二つは言うまでも無いが同一ではない。サッカー監督の仕事は、試合中の選手交代をはじめとするいわゆる「采配」が総てではないのだ。そこに大きな欺瞞がまずある。

チームの方針を定め、それを練習で選手に染み込ませ、「組織」をつくりあげる。大会へ向けて戦い方の準備をし、方針を理解した23人をバランスを考慮して選び、先発の11人をコンディションやモチベーションに留意して送り出す。選手のコンディションを管理し、モチベーションを高め、戦う意識を持たせ、「チーム」にする。試合途中で起こりえることを想定し、そのための戦い方を伝授し、それに対応した途中投入選手を選んでおき、必要に応じて投入する。

これらすべてが「チーム作り」であり、「試合中の選手交代」よりも、「それ以前」がずっとずっと大事なのだ。日本では野球の文化が根強いからか、「誰を投入した」ということのみが「采配」とされ、それが監督の手腕とされることが多いが、私の意見ではそれは監督の仕事の10%程度に過ぎない。飯塚氏はそれを理解してか、しないでか、

何度も指摘するが、今回の敗因をジーコの采配ミスに求めるのは、もっとも簡単なことで、問題の本質をついてはいない。

このように言うのだが、「敗因をジーコの采配ミスに求める」のは、まさしくものごとの本質をついていないだろう。問題は飯塚氏がオミットしたそれ以外の90%のチーム作りのほうにあるからだ。もちろん、ドイツW杯では、ジーコ監督の「采配」のつたなさも大きな敗因となったが、そちらにばかりスポットがあたるのは確かにおかしい。

しかし、飯塚氏のように「監督の手腕」を「采配」にのみ矮小化し、そこを否定することで、あたかも「ジーコ監督の能力は敗北の原因ではない」かのような書き方をするのは、間違っている。最も重要な問題から目をそらせようとする、まったくの欺瞞と言うべきだろう。


■本来の課題?

私は、ジーコ監督のチーム作り、チームマネジメントの問題が最も大きな敗因と考えるものだが、それについては別項で論じよう(チーム作りの一部チームマネジメントについては考察済み)。ここでは飯塚氏が「本来の課題」とするものの方を見ていくことにする。

飯塚氏は言う。

しかし、この4年間の日本サッカー協会の強化方針、ジーコに日本代表を任せていた理由を考えれば、ドイツW杯の敗戦を指揮官に押し付けることはできない。むしろ、采配ミスばかりがことさらに強調されて、本来の課題が表面化しないほうが怖い。

ではその、「本来の課題」とは何なのか?彼はここから一般論に目を移す。

ピッチで実際に戦うのは、ベンチに座っている監督ではない。どんな名将を招いても、プレーする選手たちが“自分自身”に責任を持ち、役割をしっかりと果たさなければ、よい結果は得られない。逆に、個々の選手がそれぞれに納得のいくプレーができたなら、チームとして満足のいく戦いができたなら、たとえ結果がともなわなくても、素直に敗戦を受け入れることができる。

なるほどなるほど。ここまではちょっと疑問はあっても「まあそういう考え方をする人はいるだろう」と思えなくは無い議論である。さてその先はどのように展開するのか。

ドイツW杯での日本代表はどうだったか?残念ながら本来の実力を発揮することなく、大会を去っている。

私もまったくそう思う。日本人選手のポテンシャルはもっと高い。この大会では日本は、持てる美点をまったく見せられなかった。グループリーグ敗退という「結果」はともかく、そのあまりの低内容に、われわれサッカーファンは大きく失望し、日本のサッカー界全体の勢い、エネルギーが下がる懸念さえあるほどだ。しかし、この先で飯塚氏は驚くような論理展開を見せる。

その原因はジーコにあったのか。決して、そうではない。ピッチの上の選手たちは、普段よりも運動量が少なく、技術的なミスを犯し、局面局面においての判断力も鈍っていた。

なんと。この男は何を言っているのか。日本代表がドイツW杯の舞台で本来の実力を発揮できなかったのは、ジーコが原因ではなく、すべて選手の問題だと言うのか。どのような論理を持ってすればそのように言うことができるのか。

言うまでもないことだが、選手は出場選手を選ぶことはできない。風邪で高熱を出した選手を送り込んでいれば、「普段よりも運動量が少なく、技術的なミスを犯し、局面局面においての判断力も鈍っていた」のは道理ではないか。選手は練習メニューを選ぶことはできない。「7試合戦うつもりでコンディションを作った」のであれば、初戦では体が重く、「普段よりも運動量が少なく、技術的なミスを犯し、局面局面においての判断力も鈍っていた」のも当然ではないのか。

W杯、特に初戦は極限の緊張が襲ってくるものである。だからこそあらゆる監督は、どのようにしてそれを取り除き、選手のメンタルを戦える状態に持っていくかについて研究し、それを実現しようと努力するのである。多くの選手が、名監督について「あの監督はモチベーションの上げ方がうまかった」と語るのは、それこそがサッカー監督の重要な、最も重要かもしれない仕事だからだ。それを失敗したドイツW杯、その敗北が監督の責任でなくてなんだというのだ。

「どんな状況でも頭をクリアに、勝利を得るためにどん欲にゴールを狙わなければならない」とはジーコが常々語っていた言葉だが、ドイツW杯での日本代表は、特にオーストラリア戦、クロアチア戦では、頭がクリアになっていなかった。

口で言うだけならば赤ん坊でもできる!プロの家庭教師が「成績を上げろ」「試験に受かれ」と口で言うだけで具体的な方策を示さなかったら、それは仕事をしたうちに入るのか?企業のある部門の責任者が部下に「業績を上げろ」と口で言うだけで、具体的な方策を示さなかったらどうなのか?口で言うだけで、本番で選手の頭をクリアにさせることができなかったのでは、仕事をしていないか、それに失敗したということだ。当たり前のことではないか。

■出発点の間違い

この4年間で日本サッカー協会が目指し、ジーコが説いてきたのは、選手個々が『自分が置かれた立場』に責任と自覚を持ち、自問自答すること、あるいは他者とのコミュニケーションによって成長を遂げることだった。教えられたことをオートマティックに遂行するだけでは、世界では勝てない。02年W杯でそのことを学んだゆえの、ジーコの監督就任であり、選手個々の成長を即した4年間だった。

この根本方針が間違っているのだ。完全に間違っているのだ。出発点から間違っているのだ。

まずは簡単なことだ。

教えられたことをオートマティックに遂行するだけでは、世界では勝てない。02年W杯でそのことを学んだ

1)2002代表は「教えられたことをオートマティックに遂行する」だけの代表ではなかった。監督の定めた60%のベースがあり、その上に個性を40%発揮することを求められた。現代表には選ばれなかった戸田や松田のような異能の個性が活かされ、稲本は「僕はジーコジャパンよりも自由だった」と述懐する。飯塚は一回この戸田の話をじっくりと読むべきだ。「そもそもそんなに言われてなかったしね

2)そもそも守備戦術において、監督が役割をしっかりと教え、構築しないチームなど、クラブであれ代表であれ、どこにあるのか。チェルシーの守備戦術は監督が教えたことを遂行しているのではないのか。フランス代表の守備戦術はオートマティックではないのか。「教えられたことをオートマティックに遂行する」ことを悪であるかのように言う、この出発点そのものが完全な欺瞞なのだ。まったくばかばかしいことと言わなければならない。

3)「世界では勝てない」?2002年W杯では2勝しているのだが?3戦全敗だった98年から見ると、5得点3失点、2勝1分1敗は大きな前進ではないか。そもそもW杯は優勝チーム以外はどこかで負けるのである。決勝トーナメントに入れば1点差試合が多くなり、1点が非常に重い試合になるのはドイツW杯を見てもわかっただろう。

どんな強豪チームも非常に慎重に試合にはいる、決勝トーナメントという極限の舞台でセットプレーから1点を失った。それにより、日本よりも格上の相手が守りに入ってしまい、攻め崩せなかった。それは「戦術の限界」などではない。ドイツの決勝トーナメントでも、先制されて反攻しきれなかったチームはあまたある。日本ははじめてその舞台に立ち、戦い方をわかっておらず、敗北したということに過ぎないのだ。

それは苦い経験だが、けして「このやり方では世界で勝てない」ということではない。グループリーグを勝ち抜く力はあったが、強豪同士が持ち味をつぶしあう、決勝トーナメントのシビアな戦いに、日本が、チームとしても、国としても、慣れていなかっただけだ。W杯出場2回目の経験の浅い国、ということが出ただけなのだ。なぜこれまでの方針を全否定しなくてはならないのか。


■A代表で「選手個々の成長を促す」

以上のように、出発点たる

教えられたことをオートマティックに遂行するだけでは、世界では勝てない。02年W杯でそのことを学んだ

が完全に間違っている。その先の論理も誤った道に入るのも自明のことだろう。続けて見てみよう。

教えられたことをオートマティックに遂行するだけでは、世界では勝てない。02年W杯でそのことを学んだゆえの、ジーコの監督就任であり、選手個々の成長を即した4年間だった。

ジーコ監督は、言うまでもないがA代表の監督である。したがってここで書かれているのは、「A代表の選手個々の成長を即した」ということだ(即した、は促した、ではないだろうか?)。私は、時間の限られる代表チームで、ユースでもない大人の選手たちに、「選手個々の成長を促がす」ことを主目的とするチーム運営は間違っていると思う。他に犠牲になるものがあまりにも大きく、非効率的に過ぎるからだ。

しかし、ここではジーコ監督がそれを主目的にしていたという前提で話を進めよう。ではそれは、どのようにしてなされたのだろうか。

この4年間で日本サッカー協会が目指し、ジーコが説いてきたのは、選手個々が『自分が置かれた立場』に責任と自覚を持ち、自問自答すること、あるいは他者とのコミュニケーションによって成長を遂げることだった。

ジーコ監督は、プロの監督としての経験をほとんど持たない。専門教育を受けたこともない。心理学や、集団の行動理論を学んだわけでもない。したがって飯塚氏が書くように、「成長を促す」のも、そういった目的の練習メニューを組むことではなく、「選手個々が『自分が置かれた立場』に責任と自覚を持ち、自問自答すること、あるいは他者とのコミュニケーションによって成長を遂げる」ことを「説く」ことでしかできないのだ。

飯塚氏は続ける。

だが、ドイツW杯はその集大成とはならなかった。(中略)なぜ、もっとも大事な大会で、本来の力を発揮することなく、不本意な戦いをしてしまったのか。

これはまったくそのとおりだ。選手個々の成長を目的としたチームが、選手個々の力ではW杯で勝てなかった。結果が出なかったのみならず、持ち味もほとんど発揮できなかった。飯塚氏はしかし、その原因がどこにあるのかをはっきりとさせていない。代わりに、次の川口の談話を紹介するのみだ。

「ボクたちは戦っているわけで、生半可な気持ちでプレーしてはいけない。代表に選ばれなかった選手もいるわけで、その気持ちも考えてプレーしないと」(クロアチア戦後の川口)

この、自分の論で語らず川口の談話に語らせている論理展開は、「ドイツW杯が『個々の成長を促す』チームとしての集大成にならなかったのは、選手たちが生半可な気持ちでプレーしていたからだ」ということだろうか?

噴飯ものである。

飯塚氏は自分の論が自家撞着に陥っていることがわからないのだろうか?


■「個のチカラ教」の伝道師ではない

・選手の「個」を伸ばすことを強化の手段とする。
・それは責任感、自覚、コミュニケーションを強調することで行う。
・4年間をそれにあてた。
・ドイツでは責任感が足りなくて勝てなかった。

ここから実に簡単に分かるのは、非常に多くのことを犠牲にしながら、4年かけてそれができなかったのであれば、時間の限られる代表チームでそのようなことを目的にすること事態が間違っている、ということだ。あるいは、ジーコ監督の能力が、それを目的とするチーム運営にあたり、致命的なまでに低かった、ということだ。どちらであれ、根本方針の誤りがドイツでの敗戦を招いたのは明らかだろう。

言うまでもないが、ジーコ監督はA代表の監督である。プロの代表監督のミッションとは何か。「与えられた時間で、結果を求められる大会で、結果を出す」ことだ。ジーコ監督が「個を伸ばす」という方針を採るのならば、そしてそれに4年間を費やしてきたのならば、さらに言えば非常に限られた少人数のチームにのみそれを施してきたのであれば、その方針によってドイツW杯で結果を出す、ことが当然、とうぜん必要である。ジーコは代表監督であって、「個のチカラ教」の伝道師ではないのだから。

日本サッカー界が何よりも取り組まなければならないのは、引き続き選手個々の成長を即すことだ。単に技術レベルをあげるのではなく、戦ううえで最も重要な要素、プロサッカー選手として、代表としての心の持ち方、精神面の成長を図らなければならない。

ここでまた一つ欺瞞が入り込んでいるのにお気づきだろうか。ジーコ監督の議論をしていたはずが、唐突に「日本サッカー界が」と言い出している。もちろん、日本サッカーが全体として「選手個々の成長を促がす」ことが必要であり、重要であることは論を待たない。しかし、それは代表監督が「主目的」とするようなことではない。ユース年代の育成や、時間の取れるクラブで行うことが第一だ。時間の限られる代表チームでそれを行うのは、非効率的であるばかりでなく、他の重要なことがおろそかになるという点で、敗北の可能性を増すことでしかないのだ。

もしそれを行うなら、プロの監督がしっかりとした守備や組織を構築した上でするべきである。トルシェ監督は、60%の組織を構築した先に、赤信号のたとえ話にあるように、「自分を表現すること」を求め続けた。2002年のチームのほうが、2006年のチームよりもリスクチャレンジが多かった、あるいは戸田や松田のような個性を活かせていたのは、偶然ではないのだ。


■オシム監督に失礼だ

幸い、次期監督であるオシムは、この流れをしっかりと引き継げる人物だ。しかも、選手への厳しさはジーコの比ではない。

これはこれから、川淵キャプテンや協会の意を組んだ評論家からよく出てくる意見だろう。このような欺瞞はジェレミーさんのコメントで粉砕できる(笑)。

それから、ジーコ氏の哲学の継承者としてオシム氏が最適であるという川淵キャプテンのコメントを聞くのには、もううんざりしている。 これは、何の経験もなく、4年という長期間に何も結果を残せなかったジーコ氏と違い、名将として尊敬され、実績も残しているオシム氏に対する侮辱だろう。

「次もジーコ路線で?」というエントリーで書いたように、オシム監督はジーコ監督と違い、放任して「選手のやりたいこと」を優先する監督ではない。チームとして進むべき指針をはっきりと定めた上で、それを実現するためにどうするべきか、を考えさせる監督である。しかも、「考えさせる練習メニュー」も非常に豊富だ。メソッドをしっかり持った、実績のある監督なのだ。監督をしたことがなかったジーコ監督と比べるべくもないのは、当然のことではないか。

選手個々の成長なくして、日本代表の成長、日本サッカー界の発展は有りえない。ジーコからオシムへの引き継ぎは、『選手個々の成長を即す』というコンセプトのもとになされたものだ(まだ正式契約前だが・・・)。ピッチに立ち、考え、判断し、実際に戦うのは、選手だということを忘れてはならない。

まだ欺瞞は続いている。重要なのは「選手個々の成長を代表の主目的にして、守備組織の構築その他をおろそかにしたために、ドイツW杯で勝てなかった」ということだ。あれほどの低い組織的完成度のチームは、W杯を見回しても他にはない。「選手個々の成長が必要だ」ということだけを強弁しても、何の意味もない。それは全サッカー界的に、当然のことだからだ。しかしA代表の監督論を考えるためには、その「空虚な正論」だけを唱え続けていても空しいだけだ。

この4年間、「個々の成長」を主目的にした代表チームが何を失ってきたのか。そしてメソッドを持たない監督によって、その個々の成長さえも4年では成し遂げられなかったという事実。「強化方針の間違い」「監督の失敗」こそが、ドイツのピッチのうえに大きく書かれていたことだ。飯塚氏よ、それから目を逸らすな、直視するのだ。そうしなくては、この焼け跡からの日本サッカーの強化はできないと知るべきだ。

目を逸らそう、逸らそうとしているのは飯塚氏ばかりではない。ジーコが失敗だったと認めると、自分の責任問題になる川淵キャプテンこそがその元凶だ。しかし、もう欺瞞は通用しない。多くの国民がドイツのピッチの上に書いてあるものを見てしまったのだ。それを覆い隠そう、嘘で塗りつぶそう、としても、もはや無理なのだ。これから川淵氏に注がれる視線は、どんどん厳しいものになるだろう。もはや、失敗を失敗と認めたほうがずっと楽になれますよ、川淵さん。

それではまた。

02:27 PM [2006総括] | 固定リンク | コメント | トラックバック(4)|

July 14, 2006

次もジーコ路線で?

Image091川淵キャプテンは、W杯グループリーグが終わった翌日、次もジーコ路線で、と発言している

「戦術で縛るのではなく、選手自身が考え、自分の意思でいろんなケースを打開していく、臨機応変にできるチームを目指す監督を選びたい」

これは一見するとなるほどと思える意見だろう。しかし、抽象的でありながら口当たりがよい言葉だけに、無批判に受け入れると誤解され、あるいは誤った方向に行きかねない言葉でもある。もう少しその周辺の言葉を探ってみよう。こちらは、川淵キャプテンがW杯前にボンの日本代表合宿地で、選手を激励した際の言葉だ。

「われわれは監督のやりたいサッカーでなく、選手のやりたいサッカーをこの4年間求めてきた。ミスを恐れずに、トライする選手がここに選ばれた」

こうなると少しニュアンスが違う。また、W杯後の帰国会見では、

今度の日本代表監督も、そのことを理解し、監督のやりたいサッカーではなく、選手自身が判断し思い切ってトライする人を選ぶために今、交渉をしている。

このように言っていたが、記者から

監督からすれば自分のしたいサッカーができないのは、引っ掛かるところかもしれません。

と突っ込まれ、

「監督のしたいサッカー」でなく、「選手がしたいサッカー」と言うと表現が極端に聞こえるが、選手を重視する――やはり監督にも「チームのあり方」があるので、それを全部無視するわけじゃない。しかし、その時々で選手がベンチ(監督)を見るのではなくて、いろいろな局面でも自分で判断できることが大事であって、選手たちが思い切ってトライし、自分の考えで難局を突破していく、そういうものを植え付けてほしいという意味。監督の作りたいサッカーはなくていい、というわけではまったくない。ジーコも決してそうじゃない。「選手自らが考えるんだ」ということを強調して表現しただけ。

このように補足している。

一般論としての、この方針自体の是非はおいておこう。サッカーは結局ピッチの上で、最終的には選手が判断せざるを得ないものだから、その部分の判断力を日本人選手が向上していくことは、私も非常に重要なことだと思う。ただ、「監督のやりたいサッカーでなく、選手のやりたいサッカーを」と言ってしまうと、今回のドイツW杯でも、どの国がそのようなことをしているのかと聞きたくなってしまうが(笑)。


■ボールを奪う位置

一般論ではなく、2006年のワールドカップにおいてその方針はどうだったか、ということを考えて見よう。ジーコ監督は、非常に基本的な指示だけをし、後は選手が自分で考えゲームを行うことを奨励した。これはその哲学として、各所で語られていることだろう。そして実際、戦術面においてジーコからの指示は少なく、選手たちは練習中の話し合いで自ら約束事を作り、それを実践しようとしていた。これももはや豊富なソースで語られていることだ

さて、ドイツのピッチ上にはどのような「選手のやりたいサッカー」があったのだろうか。実はその、複数の「やりたいサッカー」の存在、そしてそれぞれの「乖離」に、この大会の大きな敗因の一つがあったのだと、私は思う。

かつて私は「ヒデとプレス」というエントリーで書いたのだが、このチームには「ボールを奪う位置」に対する意識の差がある。それに関する、W杯前の話し合いの様子がこちらだ。

中村(セルティック)は「ヒデさん(中田英)としては『最終ラインを下げすぎだ』という意見だった」と解説する。攻撃陣は最終ラインを押し上げて、ボールを相手ゴールに近い位置で奪取して、攻撃を仕掛けたいと感じる。

中田英や高原といった攻撃の選手は、ラインを上げて前目で奪うことを要求している。そして、

 一方、宮本は「各国の親善試合を見ても、最終ラインを高い位置まで押し上げているところは少ない」とリスク管理を重んじる。福西は「それぞれの意見は違うが、まとまりある決断をしなければならない」と話す。

宮本はラインを下げて、セーフティーに戦うことを求めているようだ。ちなみに、この大会ではラインはやや下げ目で、そこからプレスを開始するチームが多かったが、オーストラリア戦のジーコジャパンほどべた引きのチームはほとんどなかった。宮本の意見は間違っていないが、だからといって「下げすぎ」はゴール付近でのプレーを増やし、フィジカルの強いチームと戦うときの危険が増大するものでもある。

攻撃陣の考える守備と、守備陣の求める「ボールを奪う位置」の差・・・。こちらも同じことのようだ。

この日は、数的不利な状況での守備を反復。加地が守備につけない状況で、攻撃を受けたときには、中田英が対応することを確認。そこで加地は「ボールにいかないで、スペースを埋めるようにして」と求めた。
中田英は1対1に強いため、数的不利な状況でも、ボールを奪いにいく傾向がある。だがボールを奪えなければ、決定機を与える危険性が高い。宮本は「ボランチ1人じゃ守れない。出ていかないで!」と訴えた。

また、福西も、このアジアカップ以来の「下がってセーフティーに守る」のやり方に慣れ、そちらを「やりたいサッカー」としている選手だった。最終予選中に、出て行って奪おうとする中田選手と、ピッチの上で意見を交換したということも、大きく報道されていた。もちろん、こういう差があっても、練習中にすり合わせが終わり、試合で連動してプレーできていればいいことではあるのだが・・・。

さて、このいくつかの「やりたいサッカー」の違いは、話し合いによって一致を見たのだろうか?実際に試合を見れば、中田英は前からプレスに走り回り、最終ラインはどんどん後退していき、それはバイタルエリアに空間を生む、という現象が見られた。さらには、小野が途中投入されると「やりたいサッカー」どころか現状認識、チームとしてすべきことまでが混乱し、大きな空間がDFラインの前に出現、そこを利用されてしまったのが、敗因の大きな一つとなった。


■走るサッカーと足元のサッカー

さらに先ほどの記事中のこちらの「やりたいサッカーの差」も興味深い。

中田英に「ワイドに展開したいから大きく開いてくれ」と指示された三都主は「プレースタイルを変えたくない」と反発した。

これは「まず走らなければサッカーは始まらない」と考える中田英らしい要求だと言える。受ける側が走って、その前方のスペースへボールを出すと、受け手はスピードに乗ってプレーができる。そのほうがよりよい攻撃になる、というのが、昔からずーっと中田英が志向するサッカーだ。が、三都主はほぼ停止状態で足元で受けて、自分の間合いで敵を抜いていくことを好む。ここでも「やりたいサッカー」の差が出てきている。

2004年、中田英選手が怪我をし、日本代表から離れている時期があった。その間に日本代表は「カバーを重視する(下がり目の)守備、ショートパスを足元でつなぐボールポゼッション」というサッカーで、アジアカップ優勝や1次予選突破など、いくつかの「結果」を出した。その後中田選手が合流すると、他の選手から「パスを大事にする代表のサッカーをして欲しい」と言われたという(2005年4月Number宮本インタビューより)。

この、「パスを(足元でもいいから)じっくりとしっかりとまわすボールポゼッション」は、中田英が「いない時の」ジーコジャパンの特徴であった。これをじっくりやりながら、敵の隙、弱点を探って行き、それが見えた時にズバッとそこをつく。突けないときは(笑)、「足元サッカー過ぎて点が取れない」状態になってしまうのだが、中田英以外の日本代表選手は、そういうサッカーにそれなりの自信を抱いていたのだろう。

しかし、中田英選手は、「ボールを高い位置で奪い、かつそこからシンプルにスピーディーにゴールへ迫る」というサッカーを信奉する。前線の選手のすばやい動き出しを求め、その前方へのパスを好む。これは代表デビューの頃からそうなのであって、「味方にも厳しいキラーパス」とはずいぶん言われたものである。そしてそれと、それ以外の選手の志向する「じっくりしたボールポゼッション」との間の「違い」が、ピッチの上でも出てしまっていたのだ。どちらが正しいか、どちらが上か、ということではない。ただ、そこに「違い」があったということなのだ。


■複数の「やりたいサッカー」たち

大まかに見てもこれだけの「やりたいサッカー」の差が、選手たちの間にあった。これを話し合いですり合わせていく作業が、W杯前の合宿で行われたわけだ。そして、それがうまく融合したのがドイツ戦であったと言える。ドイツの圧力にいったん引いたDFライン、そこからプレスして徐々にラインを上げて行く。あまり「じっくりのポゼッション」はできなかったが、ドイツ相手にはそれも仕方ないと思えた。敵陣にスペースがあるために中田英のカウンター志向のパスも効いた。いくつかの「やりたいサッカー」が、おそらくは偶々にではあるが、見事に融合していた。

しかし、マルタ戦でそれは覆ってしまう。敵陣にスペースがないために、動き出してその前方で受けるということが難しくなっていく。じゃあじっくりと足元のポゼッションで、とやり始めると中田英やFW陣にはフラストレーションがたまってしまう。そこでの折り合いも説得も効かず、中田英の試合後の爆発につながり、その問題意識はオーストラリア戦での「走れよ!」というようなパスに繋がり、味方を疲弊させてしまう。

もちろん、オーストラリア戦であそこまで引かなければ、あそこまで間延びしたフィールドでなければ、ああいうスペースへのパスでもそれほど疲弊しなくてもすんだかもしれない。しかし、こちらはドイツ戦で逆に「引いてよい」という手ごたえをつかんでしまったDF陣が、思い切りその「やりたいサッカー」を発揮してラインを押し上げなくなった。ここでも二つの「やりたいサッカー」の差が、日本に大きくマイナスに働いた。

そしてまた、「走るサッカー」と「足元のサッカー」が共存していることが、あれほどのパスミスの多さの一つの原因にも繋がっているのだ。パスを受ける相手がどっちの意思でいるか。足元に受けようとしているのか、動こうとしているのか。またその逆もしかり。自分にパスを出そうとしている選手がどちらを考えているのか。その意図が一致していない、「パスミス」というよりも「意思疎通ミス」なのだ。試合でも「そこじゃないよ」とか「走れよ」という顔で両手を広げる選手たちを、何度もなんども見ることができたはずだ。


■やりたい≠やるべき

ジーコ監督が、選手の「自主性」と「自由」に任せてしまった結果が、この「たくさんのやりたいサッカー」と、それによるピッチ上のバラバラであった。ドイツW杯を見ても、多くのチームが統一した意識の元にしっかりとした守備を構築し、また2人、3人と意識の連動した攻撃をしている。それらは「監督がやりたいサッカーを押し付けた、よくないもの」「監督が戦術で縛った、よくないもの」だったのだろうか?そんなことがあるわけがない。「監督が、選手たちのプレーしやすいように、プレーの基準を定めておいた」と考えるべきだろう。実際、決勝トーナメント上位に残るチームは、みなそれができていたではないか。

交通ルールは、みんなが円滑に走れるようにするためのものだ。それぞれが走りたい方法で走って、意図が違ったらいちいち話し合いでルールを作る。そんなことをしていて、スムースに目的地に着ける社会になるだろうか?まったくおかしなことなのだ。そしてそのおかしさが、これまでは何とかごまかせては来ても、最もシビアな戦いであるW杯では噴出してしまったのだ。ある意味、当たり前のことと言えるだろう。

冒頭の言葉に戻ろう。

「戦術で縛るのではなく、選手自身が考え、自分の意思でいろんなケースを打開していく、臨機応変にできるチームを目指す監督を選びたい」

この場合の「選手が考え」というのは、「やりたいサッカーを考える」のではない。選手自身が「今何をするべきか」を考える、ということである。当然そこにはしっかりとした一つの指標がなくてはならない。そして、そうした指標の元で選手が「何をすべきか」考えながらプレーする、そういう能力を伸ばしていく、ということを志向するのは、間違っていない。ただし、ジーコ監督のサッカーはそうではなかった。あの指導方針では、そうはならなかった。そこは間違えてはならない。

それではまた。

12:01 PM [2006総括] | 固定リンク | コメント | トラックバック(1)|

July 10, 2006

日本は「戦えて」いたか?

上川主審が、「日本は一番戦っていなかった」と発言したようです。

2試合で笛を吹いた上川徹主審(43)と広嶋禎数副審(44)。世界レベルの戦いを直接目にする2人は、日本代表について「(出場チームで)一番、戦っていなかった」と辛口に評価した。

 上川主審は「強いチームは汗をかいている」ときっぱり。日本は、地道にボールを追い掛ける泥臭い部分が欠けていると、映った。広嶋副審は「相手ボールにプレスをかけることをさぼったら、幾ら技術のある選手がいても勝てない」と指摘した。

Image099これは私も非常に同感です。今回のW杯で私たちがなんともガッカリしてしまったのは、日本代表からそういう「戦う姿勢」があまりにも見られなかったことが大きいのではないでしょうか。

この記事では二人の主審は「汗をかく」「プレスをさぼらずにかける」ということを「戦う」ことの定義(の一部)としているようですが、私はそれらに加えて「からだを張る」ということもあるように思います。そして、「戦っている」試合ではそれはやはり我々の眼にも見えてくる。「魂」の感じられる試合になってくる。

例えば、ドイツW杯イングランドvsポルトガル戦でも、恐ろしいほど必死にプレスをかけ、身体をブチあてて行き、シュートモーションに入った敵の足元に自分の身を省みずに飛び込んで行き、ラインから出そうになるボールを必死に追っていく、そんな選手の姿を見ることができます。あれほどの有名選手、能力の高い選手たちなのに、そのときの彼らは「勝つためには己などどうなってもよい」というような姿勢を見せている。「ああ、彼らは本当に『戦っている』んだな」と、理屈抜きに思えます。


■植民地の外国人(笑)?

ここで一つ、興味深い記事がありました。今回のワールドカップ後の、サッカーマガジン元編集長千野圭一氏のコラムです。「ジーコの失敗と本質を分析し、正しく次に繋げなければ進歩はない」タイトルには誰もが共感すると思うのですが、中の記事にはあまりジーコの失敗や本質の分析はなく、ちょっと「看板に偽りあり」になってしまっていますね(笑)。

この中に、今回の件と関連すると思われる記述があるのです。

 トルシエ監督は、選手たちを遠隔操作のロボットのように扱った。練習でうまくいかないと、映像では選手の胸をつかんだり、小突いたり、時には頭を叩いたりすることもあった。まるで優越感に浸る欧州人が、植民地の奴隷に接するように横柄な態度で選手たちに接したのには感情的ではあったが、腹が立った。

「ロボットなのかどうか」とか、「植民地のようなのかどうか」という点は、千野氏の主観的な部分だからどうでもいいのですが(笑)、この中の「映像では選手の胸をつかんだり、小突いたり、時には頭を叩いたり」というのは、確かにトルシェ監督がよくやっていたことでしょう。しかし、それは彼が単に横柄だったり、優越感に浸る欧州人が、植民地の奴隷に接するような気持ちだったりするから、行っていたことなのでしょうか?

田村修一氏の「トルシエ革命」の中で、トルシェ監督自身がその指導について語っていました。

私の指導方法は他の監督とは少し変わっている。選手には常に100パーセントを要求し、集中力やモチベーションを欠く選手にはときに非常にアグレッシブになる。サッカーはプレーであると同時に戦いでもあることを、彼らに常に意識させたいからだ。戦う気持ちをもてない選手は、私のチームにはいらない。

トルシェ監督は、そうすることで選手たちに「戦う姿勢」を植えつけることができると考えて、そのような指導を行っていたようです。確かに、いわゆる「練習でできないことは試合でもできない」と考えると、練習から100%ファイトする、全力を尽くす、練習から「戦う」ことが、必要なのかもしれません。そしてトルシェ監督はそれを、自らも態度で示し、強く要求しました。さて、それは奏功したのでしょうか。


■岡野元会長と財徳さん

2000年6月19日、あの解任狂躁曲を廃し、岡野会長(当時)がトルシェ監督の続投を決めた時、記者に「トルシェ監督のどこを評価したのか」と聞かれた岡野会長は、次のように答えています(当時のJFAニュースより)。

:戦う意思を選手に植え付けてくれたこと。環境の変化に対応できる力を付けてくれたこと。そして、厳しさを日本代表チームに植え付けてくれたことを評価しています。 

ここでも「戦う意思」ということがあげられています。実際、2002年の試合を見直すと、多くの選手が身体を張り、走り回り、倒されそうになりながらも最後の瞬間まで足を出し、ボールに、敵に食らいついていく姿を見ることができます。これはもちろん主観になるのですが、少なくとも私と岡野元会長とに共通する見方として、当時の日本代表チームは「戦う姿勢」のあるチームだった、ということが言えると思います。

ではそれはどのように培われたものなのでしょうか。こちらに、財徳賢健治さんの2001年の終わりごろの興味深いインタビューがあります。ちょっと長くなりますが引用します。

財徳 指導するときに、本当に小さいことまで言うでしょ。外国人の当たりはこんなに強いんだぞと、体をぶつけたり、手をひっぱったり、ときには胸ぐらをつかまえたりね。そんなことをした監督はいままでいなかったでしょ。最初は選手も「なんなんだ」と思っただろうけど、実際の試合に生かされているよね。やはり、自分の意志をはっきり伝えた成果だと思います。(略)

財徳 デットマール・クラマーさんが、「ドイツ人にゲルマン魂があるように、日本人にも大和魂がある」と言っていたのと同じようなことですよね。戦うにはそれが必要なんだということを、気づかせてくれた。「根性」て言葉を使うと、みんな拒否反応を起こすでしょ。私は大好きなんだけどね。ファイティング・スピリットって言えばいいの? ちょっと違うんだよね。魂なんだよ。

どうでしょうか。この大会で日本代表が忘れていたことが、ここには凝縮されているように思わないでしょうか。続きも引用しておきます。

-- (2001年当時の代表は)魂という点ではどうですか。いまの若者はそれを表に出すことを良しとしないのではないですか。

財徳 (略)魂を前面に出すチームじゃなきゃ勝てないって。そういう意味じゃ、代表として2001年最後の試合だったイタリア戦は立派だった。(略)

財徳 ぶつかって倒れた後、相手をかーっとにらみ返してたでしょう。あのにらみ返す目だよ。あれをもっていなきゃだめ。にらみ返して、あとはすーっと我に返る。(略)国際試合ではメンタル面でもタフな戦いを要求されているんだ。選手個々の局面でね。この間のイタリア戦では、こういうところがいちばん好きだった。後半、がんがんやり返されていたけど、全然ひるんでなかった。そこがよかった。

ここで言われている、「ぶつかって倒れた後、相手をかーっとにらみ返してたでしょう。あのにらみ返す目だよ。あれをもっていなきゃだめ。にらみ返して、あとはすーっと我に返る」この風景は、確かに2002年W杯のピッチ上でも見られましたね。ひたむきに全力を尽くす、倒れそうになっても走る、最後までカラダを張る、ということの他にも、メンタル面で相手に負けないということ、そしてそれを「表に出す」ということ、それも2002年には日本が手にしていた「戦う姿勢」の一つなのだとわかります。


■ドイツではどうだったのか?

2006年の日本代表が「戦っていたか、いなかったか」。これは最終的には個人の主観によるものです。すごく戦っていたと考える方もいるでしょう。また、戦えていなかったとして、その原因が何であるのかも、もっと選手の談話など、情報が増えてこないとわからないところです。ただ一つだけ言えるのは、サッカーマガジンの千野さんのコラムにあるトルシェ元監督の練習中の態度には、きちんと日本代表強化のための意図があるということ。そしてそれがある程度効果をあげていて、それがゆえに2002年の結果がある、ということです。

秋田 豊 今日のミニゲームはリラックスしていた。ここ何年か試合前日にこれほどリラックスしたことはなかった。

これはジーコ監督就任直後の練習についての、秋田の談話です。その時から3年半、練習中の雰囲気については「和気あいあい」「楽しそう」「笑顔があふれる」などということが多くもれ聞こえてきました。私はそのやり方をすべて否定するものではありません。選手を「大人扱い」するジーコ監督は、リラックスした中でもそういう「戦う姿勢」を「自分から、自然に」出せる選手を選んだつもりだったでしょうし、それを練習や指導で引き出すつもりはなかったのでしょう(そのためのメソッドの引き出しもほとんどなかったとは思いますが)。ただ、それであれば最後に「爆発」したのはどういうことなのか・・・。

さて、「選手が自分でメンタル面を管理できるように自立を促した」「選手が自分で戦う集団になれるように、自立を促した」はずの、ジーコ監督のやり方の、その結果は?日本の選手は戦えていたのか、いなかったのか?そういう視点で私はもう一度、「もう二度と見たくない」あの3試合のビデオを、見直してみたいと思います。

それではまた。

06:30 AM [2006総括] | 固定リンク | コメント | トラックバック(0)|

July 02, 2006

ジーコジャパンはなぜ敗れたのか?

Image098ジーコジャパンのドイツW杯での「敗因」はなんだったのか?

ひとことで言えるようなものではないが、私は次の2点に集約されると思う。

A)ジーコ監督のチーム・マネジメント能力の問題
B)ジーコ監督が自他の戦力を見誤っていた問題

A)に関しては、これまでも各所で繰り返し指摘されてきたことでもある。さかのぼれば、2003コンフェデ杯終了後の「ジーコ監督評価」において、

ジーコ監督のチーム・マネージメント能力に問題がある。監督を交代することが望ましい

と私も書いている。またその後のドイツW杯1次予選オマーン戦(2004年2月)前には、「東アジア選手権後のジーコ監督評価」においても、その評価は変わらない、と考えていた。

日本代表監督に就任以前のジーコ氏のプロの監督としてのキャリアは非常に浅い。ほぼ監督未経験者と言ってよいだろう。さらには専門教育を受けてきたわけでもない。サッカーの代表監督が、どのようにしてチームを作り、運営し、試合のための、大会のための準備をし、モチベーション・コントロールをしなくてはいけないのか、「やったことがない」のだ。日本代表をつぶさに見ていけば、未経験者のジーコ監督のその「チーム・マネジメント」の能力が低いことは、誰にもわかることだっただろう。これまでもたびたび指摘されてきたそれが、緊張の極度に高まるW杯本大会で、最悪の形で出てしまったのだ。それがもっとも大きな敗因だ、と言わざるを得ない。

かつてこれが、非常に悪い形で出たのがアジア1次予選初戦のオマーン戦であったと思う。ロスタイムに久保の足元に偶然転がったボールでゴールができたものの、ほぼ引き分けに近いほど苦しんだその試合の苦戦の原因を、当時私は次のようにあげていた。

1)コンディション調整の失敗
2)選手のコンディションを軽視した、強引な選手起用
3)コンディションを軽視せざるを得ない、薄い選手層
4)戦術を浸透させることではなく、選手間の話し合いに依存する強化法
5)モチベーション・コントロールの失敗

いかがだろうか、まるで「今回のW杯の敗北の原因を見た後に書いている」ようだと思われないだろうか。これらにより、1次予選初戦のオマーン戦や次のシンガポール戦に苦戦をしたのだが、これらの失敗をした監督が反省し、改善しようとしない限り、失敗の再現可能性が高いことは容易に想像がつく。まさに今回それ-ジーコ監督のチーム・マネジメント能力の低さ-が噴出し、「敗北」をしてしまったのだ。


1)コンディション調整の失敗

ジーコ監督率いるチームの、フィジカルコンディション作りの能力はこれまでも疑問が投げかけられてきた。オマーン戦の、合宿でコンディションを作ったはずの国内組選手が動けなかったこともそうだし、シンガポール戦での「サウナでの暑熱馴化」による後半の完全なガス欠も忘れられない。それのみならず、ドイツW杯ではなんと「W杯は7試合を戦う計算で体を準備した」という。ドイツに渡ってからも2部練習を行い、疲労が蓄積していた。

初戦のオーストラリア戦では、ご存知のとおりピッチ上は非常な暑さに見舞われた。これまでの大会では、日本は暑さに強く、終盤走れている日本が勝利をもぎ取ることがままあった。しかし、この試合では、日本選手の足が止まってしまっていた。それが終盤に多くのシュートを浴び、逆転される一因になったことは間違いないだろう。

オーストラリア代表MFのクリナ

日本とオーストラリアの違いは何だったか? フィットネスだよ。フィジカルじゃなくて、フィットネス。僕たちは3週間完璧に準備してきたから、最後まで走れた。それに対して、日本はバテバテだったね。

その他の試合でも、中田英選手の求めた「RUN!RUN!RUN!」は実現できなかった。日本のよさを出すパスサッカーには、全員が動くことが不可欠である。大会全体の日本の不調は、「コンディション調整の失敗」に多くの原因がある。それは、「チーム・ジーコ」の責任であることは論を待たないだろう。


2)選手のコンディションを軽視した強引な選手起用

ジーコ監督は、オマーン戦でも、ドイツW杯でも、風邪を引き39度の熱があった/ある選手を先発させている。私にはまったく理解できないことだ。試合を見ればだれにも一目瞭然、熱があれば動けなく、その持てる技術を決定的な局面で発揮することはできない。あたりまえのことだ。また、長い怪我から回復したばかりで試合勘がいまひとつの選手、所属チームで1シーズンあまり試合に出ていない選手などの強行起用も、どちらの試合でも共通することだ。

これは「ジーコ監督が選手の中に『序列』を決めているから起こること」だとは、この4年で私たちにもよく理解されてきたことである。ジーコ監督は「熱のある『クラッキ(名手)』のほうが、平熱の普通の選手よりも上だ」という信念を持っているのだろう。私はそれを全面的には否定しない。この4年でその信念が日本を勝たせてきたこともあると思う。しかし緊張が極端に高まり、敵のレベルも上がり、敵もこちらをしっかりと研究してくるこのW杯では、それは発揮できなかった。

コンディション調整の失敗のみならず、動けるわけがない選手をも強引に投入する。それでは日本らしいパスサッカーができるわけがないではないか。


3)コンディションを軽視せざるをえない薄い選手層
4)戦術を浸透させることではなく、選手間の話し合いに依存する強化法

「薄い」と言うのは正確ではないだろう。しかし、では仮に熱のある中村俊輔選手を外すとして、そこに誰を入れるか想像がつくだろうか?同じポジションの選手としては小笠原がいる。彼も非常によい、日本を代表するMFであることは疑いをいれないが、初戦オーストラリア戦、3-5-2の一人のトップ下に彼が入って戦うことを、私は想像できない。実際はそうせざるを得ないだろうが、そうすると、これまでの合宿での話し合いで作られた約束事は継承されず、またかなり戻ったところから始めなくてはならなかっただろう。

これは選手層というよりも、4)の「戦術を浸透させることではなく、選手間の話し合いに依存する強化法」によるものだ。話し合いでできた約束事のうち、サブの選手にまで浸透しているものは少ない。練習でもレギュラーとサブは明確に区別され、話し合いにも入らなかったようだ。そうなると、他の選手を出したときに、茂庭のように「DFラインの上げ下げとか、どうしていいのか分からなかった」という選手が出てしまうのだ。チーム作りに4年をかけていながら、現状では「誰が出ても大丈夫」とは言えない状態だったのだ。

駒野にしても、オーストラリア戦の小野にしても、ブラジル戦で途中から投入された中田浩二選手にしてもそうだろう。小野に関しては後で詳述するが、中田浩は、ずいぶんと自分の位置取りに苦慮していたように見えた。この強化法は、「途中で投入される選手は、周りと合わせた経験が少ない」ということにつながる。それは当然のことだ。途中投入選手は「レギュラー組」で練習していないのだから。レベルの高い試合ではそこが問題になった。

強化の開始時点ではレギュラー同士での話し合いに手一杯で、それができると今度は、話し合いの約束事を理解している選手が限定され、選手を代え難くなる。「誰が出てもある程度は機能するように戦術が浸透し、コンディションしだいで起用する」ということは、まったくできなかった。ジーコ監督の中の「序列」以外にも、コンディションを軽視して選手を出さざるを得ない理由はあったわけだ。そしてそれが、試合内容の低調さにつながっていく。


○途中投入選手の非充実

関連して、この大会で残念だったのが、途中投入選手があまり機能しなかったことである。「リードされたときに投入して1点を奪いにいく選手(ジョーカー)」と、「リードしたときに投入して、逃げ切るための選手(クローザー)」。どちらのケースも想定して、必要な選手の選定を済ませ(それもできれば複数のタイプ)、親善試合の同じようなケースで投入して効果を試しておく。それが大会へ臨むチーム・マネジメントとして当然必要なことだ。

ジーコ監督はジョーカーとしては、アジア最終予選で途中投入し得点を挙げた大黒を主として考えていたようだ。もう一つは、試合途中での3バックか4バックへの変更だろう。確かにこれまで、何度か機能してきたやりかたではある。ただ、この大会ではどちらもあまり機能しなかった。大黒の調子もあるが、最近の合宿でレギュラーチームと大黒がどこまであわせることができていたのか、疑問が残る。

より深刻な問題は「クローザー」のほうだろう。オーストラリア戦では1点リードの局面での小野の投入により、攻めるのか、守るのかがあいまいになり、敗れた。ただしこれは、守備的な選手を入れてのいわゆる「守備固め」をするべきだった、ということではない。もちろんそうしてもいいが、それだけではない。試合終盤を締めるやり方がいろいろあるのは、ワールドカップドイツ大会を見ていればわかるだろう。

オーストラリア戦を例に取れば、あの試合終盤に「今野」をボランチの位置に入れれば効果は劇的だっただろう。あるいは、フレッシュなFWや走れるMFを入れて「ロングボールの出どころつぶし」「前線でのボールキープ」を行うか。巻はまさにそれにうってつけの人材だったのだが・・・。準々決勝でブラジル代表に1点リードしたフランスは、MFとFWを3人入れ替えた。2002年のロシア戦ではゴン中山が投入され、最前線でプレッシャーをかけまくった。別に特筆すべき采配というわけではない。セオリーなのだ。

ジーコ監督は、「ジョーカー」としては大黒に信頼を寄せていたようだが、「クローザー」のほうは充実させようという考え方自体を持っていなかったように見える。それは哲学なのかもしれないが、この大会ではそこがクローズアップされ、結果につながってしまった。途中投入について、もっと多岐に考え、準備しておくことが必要だったと言えるだろう。


5)モチベーション・コントロールの失敗

すでに各所で明らかにされつつあるが、このチームは本当に「戦う集団」になっていたのかどうか。オマーン戦の時から指摘しているように、ジーコ監督の「チーム内にヒエラルキーを作る」「一部選手に重過ぎる信頼を置く」というやり方は、チームのモチベーション・コントロールにとっては下策である。サブが腐る、ということだけではなく、レギュラーに固定された選手たちも「下手なことをして外されるのは馬鹿」だと感じ、チャレンジしなくなってしまう。

チーム内部のことはわれわれサポーターにはうかがい知れないことであるので、あまりここを声高に責めても仕方がないことではあり、これからまた各種報道でそれが明らかにされることを待つしかない。現在明らかにされているところでは、中田英選手の発案による決起集会、そこでの寄せ書きには16人分の署名しかなかったと言う。チーム内の亀裂を想像させるエピソードだ。

私は基本的には中田英選手が好きなのだが、この問題に関しては「中田が正しく、他が間違っている」というつもりはない。やはり中田は言い方がきつすぎるし、他の選手にしても「なぜ同じ選手にここまで言われなければならないのか」と感じることもあっただろう。かといって中田が悪いと言うわけでもない。この問題はジーコ監督の「一部選手に重過ぎる信頼を置く」ことから発生しているからだ。

また、中田選手を重用するならば、彼が他の選手に溶け込みやすいように、チームのメンタル環境を用意しておくこともできた。思い起こせば2002年には、松田選手や森岡選手など、中田に対してものを言える選手も多くいたうえに、トルシェ監督は直前にゴン中山選手や秋田選手を呼んでいる。当時は「ベンチの盛り上げ要員など不要」と言われたが、この大会を見ると「盛り上げ要員」などではなく、チームのメンタルの重心として、まさに彼らが必要だったのだ、と理解されるのではないか。

ジーコジャパンで言えば、予選の途中でまとめ役を買って出ていたのは年長の藤田や三浦アツだったと伝え聞く。彼らは所属チームでの調子もあるが、結局本大会の23人には選ばれなかった。ジーコ監督は、そういう「チームのメンタル的な側面」を理解、重視して選手選考を行ったようには見えない。妙に年齢の近い、タイプの近い選手が集まってしまった。結果として、チームは一つにならず、あの一人倒れ涙する中田英選手の姿、そこに宮本しか歩み寄らないチームの姿に繋がって行く(ように見える)。


■「家族」はどこへ行った

私は、ジーコ監督の「選手にヒエラルキーをつくり『家族』としていくチーム・マネジメント」にも、いいところがあると思ってきた。選手が「そこまで信頼してくれるのなら」と力を発揮したり、「家族としてのまとまり」が、危機に際してモチベーションをあげる役割を果たし、それが試合終盤での粘り、ロスタイムのゴールなどに繋がっている可能性もあると思ってきた。アジアカップをとれたのはそのためだと思ってきた。

しかし、残念ながらこの大会ではそれは発揮されなかった。この大会でのジーコ監督のモチベーション・コントロールは失敗した、と言うしかない。それが敗因の中で、どれだけのウェイトを占めるかはわからない。ただ、ドイツW杯のほかの試合を見ていると、選手の「闘う姿勢」において、日本代表は負けていると感じられてならない(これは個人的な感想であるが)。ブラジルに試合で負けるのは、ある意味仕方がないことだ。しかし、最後まで全力を尽くして喰らいついていった、からだを張って、魂の限り闘った。はたしてブラジル戦は、そういう負けだっただろうか?

そういう姿が、ドイツW杯という本番の舞台で見られなかったこと。それが日本中にこれほどの脱力を起こしている理由なのではないか、と思う。残念だ。残念で仕方がない。

B)については項をあらためます。それではまた。

05:43 PM [2006総括] | 固定リンク | コメント | トラックバック(1)|