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July 14, 2006

次もジーコ路線で?

Image091川淵キャプテンは、W杯グループリーグが終わった翌日、次もジーコ路線で、と発言している

「戦術で縛るのではなく、選手自身が考え、自分の意思でいろんなケースを打開していく、臨機応変にできるチームを目指す監督を選びたい」

これは一見するとなるほどと思える意見だろう。しかし、抽象的でありながら口当たりがよい言葉だけに、無批判に受け入れると誤解され、あるいは誤った方向に行きかねない言葉でもある。もう少しその周辺の言葉を探ってみよう。こちらは、川淵キャプテンがW杯前にボンの日本代表合宿地で、選手を激励した際の言葉だ。

「われわれは監督のやりたいサッカーでなく、選手のやりたいサッカーをこの4年間求めてきた。ミスを恐れずに、トライする選手がここに選ばれた」

こうなると少しニュアンスが違う。また、W杯後の帰国会見では、

今度の日本代表監督も、そのことを理解し、監督のやりたいサッカーではなく、選手自身が判断し思い切ってトライする人を選ぶために今、交渉をしている。

このように言っていたが、記者から

監督からすれば自分のしたいサッカーができないのは、引っ掛かるところかもしれません。

と突っ込まれ、

「監督のしたいサッカー」でなく、「選手がしたいサッカー」と言うと表現が極端に聞こえるが、選手を重視する――やはり監督にも「チームのあり方」があるので、それを全部無視するわけじゃない。しかし、その時々で選手がベンチ(監督)を見るのではなくて、いろいろな局面でも自分で判断できることが大事であって、選手たちが思い切ってトライし、自分の考えで難局を突破していく、そういうものを植え付けてほしいという意味。監督の作りたいサッカーはなくていい、というわけではまったくない。ジーコも決してそうじゃない。「選手自らが考えるんだ」ということを強調して表現しただけ。

このように補足している。

一般論としての、この方針自体の是非はおいておこう。サッカーは結局ピッチの上で、最終的には選手が判断せざるを得ないものだから、その部分の判断力を日本人選手が向上していくことは、私も非常に重要なことだと思う。ただ、「監督のやりたいサッカーでなく、選手のやりたいサッカーを」と言ってしまうと、今回のドイツW杯でも、どの国がそのようなことをしているのかと聞きたくなってしまうが(笑)。


■ボールを奪う位置

一般論ではなく、2006年のワールドカップにおいてその方針はどうだったか、ということを考えて見よう。ジーコ監督は、非常に基本的な指示だけをし、後は選手が自分で考えゲームを行うことを奨励した。これはその哲学として、各所で語られていることだろう。そして実際、戦術面においてジーコからの指示は少なく、選手たちは練習中の話し合いで自ら約束事を作り、それを実践しようとしていた。これももはや豊富なソースで語られていることだ

さて、ドイツのピッチ上にはどのような「選手のやりたいサッカー」があったのだろうか。実はその、複数の「やりたいサッカー」の存在、そしてそれぞれの「乖離」に、この大会の大きな敗因の一つがあったのだと、私は思う。

かつて私は「ヒデとプレス」というエントリーで書いたのだが、このチームには「ボールを奪う位置」に対する意識の差がある。それに関する、W杯前の話し合いの様子がこちらだ。

中村(セルティック)は「ヒデさん(中田英)としては『最終ラインを下げすぎだ』という意見だった」と解説する。攻撃陣は最終ラインを押し上げて、ボールを相手ゴールに近い位置で奪取して、攻撃を仕掛けたいと感じる。

中田英や高原といった攻撃の選手は、ラインを上げて前目で奪うことを要求している。そして、

 一方、宮本は「各国の親善試合を見ても、最終ラインを高い位置まで押し上げているところは少ない」とリスク管理を重んじる。福西は「それぞれの意見は違うが、まとまりある決断をしなければならない」と話す。

宮本はラインを下げて、セーフティーに戦うことを求めているようだ。ちなみに、この大会ではラインはやや下げ目で、そこからプレスを開始するチームが多かったが、オーストラリア戦のジーコジャパンほどべた引きのチームはほとんどなかった。宮本の意見は間違っていないが、だからといって「下げすぎ」はゴール付近でのプレーを増やし、フィジカルの強いチームと戦うときの危険が増大するものでもある。

攻撃陣の考える守備と、守備陣の求める「ボールを奪う位置」の差・・・。こちらも同じことのようだ。

この日は、数的不利な状況での守備を反復。加地が守備につけない状況で、攻撃を受けたときには、中田英が対応することを確認。そこで加地は「ボールにいかないで、スペースを埋めるようにして」と求めた。
中田英は1対1に強いため、数的不利な状況でも、ボールを奪いにいく傾向がある。だがボールを奪えなければ、決定機を与える危険性が高い。宮本は「ボランチ1人じゃ守れない。出ていかないで!」と訴えた。

また、福西も、このアジアカップ以来の「下がってセーフティーに守る」のやり方に慣れ、そちらを「やりたいサッカー」としている選手だった。最終予選中に、出て行って奪おうとする中田選手と、ピッチの上で意見を交換したということも、大きく報道されていた。もちろん、こういう差があっても、練習中にすり合わせが終わり、試合で連動してプレーできていればいいことではあるのだが・・・。

さて、このいくつかの「やりたいサッカー」の違いは、話し合いによって一致を見たのだろうか?実際に試合を見れば、中田英は前からプレスに走り回り、最終ラインはどんどん後退していき、それはバイタルエリアに空間を生む、という現象が見られた。さらには、小野が途中投入されると「やりたいサッカー」どころか現状認識、チームとしてすべきことまでが混乱し、大きな空間がDFラインの前に出現、そこを利用されてしまったのが、敗因の大きな一つとなった。


■走るサッカーと足元のサッカー

さらに先ほどの記事中のこちらの「やりたいサッカーの差」も興味深い。

中田英に「ワイドに展開したいから大きく開いてくれ」と指示された三都主は「プレースタイルを変えたくない」と反発した。

これは「まず走らなければサッカーは始まらない」と考える中田英らしい要求だと言える。受ける側が走って、その前方のスペースへボールを出すと、受け手はスピードに乗ってプレーができる。そのほうがよりよい攻撃になる、というのが、昔からずーっと中田英が志向するサッカーだ。が、三都主はほぼ停止状態で足元で受けて、自分の間合いで敵を抜いていくことを好む。ここでも「やりたいサッカー」の差が出てきている。

2004年、中田英選手が怪我をし、日本代表から離れている時期があった。その間に日本代表は「カバーを重視する(下がり目の)守備、ショートパスを足元でつなぐボールポゼッション」というサッカーで、アジアカップ優勝や1次予選突破など、いくつかの「結果」を出した。その後中田選手が合流すると、他の選手から「パスを大事にする代表のサッカーをして欲しい」と言われたという(2005年4月Number宮本インタビューより)。

この、「パスを(足元でもいいから)じっくりとしっかりとまわすボールポゼッション」は、中田英が「いない時の」ジーコジャパンの特徴であった。これをじっくりやりながら、敵の隙、弱点を探って行き、それが見えた時にズバッとそこをつく。突けないときは(笑)、「足元サッカー過ぎて点が取れない」状態になってしまうのだが、中田英以外の日本代表選手は、そういうサッカーにそれなりの自信を抱いていたのだろう。

しかし、中田英選手は、「ボールを高い位置で奪い、かつそこからシンプルにスピーディーにゴールへ迫る」というサッカーを信奉する。前線の選手のすばやい動き出しを求め、その前方へのパスを好む。これは代表デビューの頃からそうなのであって、「味方にも厳しいキラーパス」とはずいぶん言われたものである。そしてそれと、それ以外の選手の志向する「じっくりしたボールポゼッション」との間の「違い」が、ピッチの上でも出てしまっていたのだ。どちらが正しいか、どちらが上か、ということではない。ただ、そこに「違い」があったということなのだ。


■複数の「やりたいサッカー」たち

大まかに見てもこれだけの「やりたいサッカー」の差が、選手たちの間にあった。これを話し合いですり合わせていく作業が、W杯前の合宿で行われたわけだ。そして、それがうまく融合したのがドイツ戦であったと言える。ドイツの圧力にいったん引いたDFライン、そこからプレスして徐々にラインを上げて行く。あまり「じっくりのポゼッション」はできなかったが、ドイツ相手にはそれも仕方ないと思えた。敵陣にスペースがあるために中田英のカウンター志向のパスも効いた。いくつかの「やりたいサッカー」が、おそらくは偶々にではあるが、見事に融合していた。

しかし、マルタ戦でそれは覆ってしまう。敵陣にスペースがないために、動き出してその前方で受けるということが難しくなっていく。じゃあじっくりと足元のポゼッションで、とやり始めると中田英やFW陣にはフラストレーションがたまってしまう。そこでの折り合いも説得も効かず、中田英の試合後の爆発につながり、その問題意識はオーストラリア戦での「走れよ!」というようなパスに繋がり、味方を疲弊させてしまう。

もちろん、オーストラリア戦であそこまで引かなければ、あそこまで間延びしたフィールドでなければ、ああいうスペースへのパスでもそれほど疲弊しなくてもすんだかもしれない。しかし、こちらはドイツ戦で逆に「引いてよい」という手ごたえをつかんでしまったDF陣が、思い切りその「やりたいサッカー」を発揮してラインを押し上げなくなった。ここでも二つの「やりたいサッカー」の差が、日本に大きくマイナスに働いた。

そしてまた、「走るサッカー」と「足元のサッカー」が共存していることが、あれほどのパスミスの多さの一つの原因にも繋がっているのだ。パスを受ける相手がどっちの意思でいるか。足元に受けようとしているのか、動こうとしているのか。またその逆もしかり。自分にパスを出そうとしている選手がどちらを考えているのか。その意図が一致していない、「パスミス」というよりも「意思疎通ミス」なのだ。試合でも「そこじゃないよ」とか「走れよ」という顔で両手を広げる選手たちを、何度もなんども見ることができたはずだ。


■やりたい≠やるべき

ジーコ監督が、選手の「自主性」と「自由」に任せてしまった結果が、この「たくさんのやりたいサッカー」と、それによるピッチ上のバラバラであった。ドイツW杯を見ても、多くのチームが統一した意識の元にしっかりとした守備を構築し、また2人、3人と意識の連動した攻撃をしている。それらは「監督がやりたいサッカーを押し付けた、よくないもの」「監督が戦術で縛った、よくないもの」だったのだろうか?そんなことがあるわけがない。「監督が、選手たちのプレーしやすいように、プレーの基準を定めておいた」と考えるべきだろう。実際、決勝トーナメント上位に残るチームは、みなそれができていたではないか。

交通ルールは、みんなが円滑に走れるようにするためのものだ。それぞれが走りたい方法で走って、意図が違ったらいちいち話し合いでルールを作る。そんなことをしていて、スムースに目的地に着ける社会になるだろうか?まったくおかしなことなのだ。そしてそのおかしさが、これまでは何とかごまかせては来ても、最もシビアな戦いであるW杯では噴出してしまったのだ。ある意味、当たり前のことと言えるだろう。

冒頭の言葉に戻ろう。

「戦術で縛るのではなく、選手自身が考え、自分の意思でいろんなケースを打開していく、臨機応変にできるチームを目指す監督を選びたい」

この場合の「選手が考え」というのは、「やりたいサッカーを考える」のではない。選手自身が「今何をするべきか」を考える、ということである。当然そこにはしっかりとした一つの指標がなくてはならない。そして、そうした指標の元で選手が「何をすべきか」考えながらプレーする、そういう能力を伸ばしていく、ということを志向するのは、間違っていない。ただし、ジーコ監督のサッカーはそうではなかった。あの指導方針では、そうはならなかった。そこは間違えてはならない。

それではまた。

12:01 PM [2006総括] | 固定リンク

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