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April 26, 2006

「オフ・ザ・ボール」というメッセージ

前回のエントリーには、いくつか賛同のご意見をいただいてとてもうれしいです。さて、あれを書いた後、なにか書き忘れたことがあったと思っていたのですが、最近また掲示板の議論を見ていて、はたと思い至りました。それがオシム監督のサッカーを描写する時によく使われる「走るサッカー」という部分です。

この場合の「走る」は当然、ボールのないところでもチーム全員が「走る」ということですから、いわゆる「オフ・ザ・ボールの動き」ということになります。前回書いた、「コミュニケーション・ゲーム」としてのサッカーを愛する私は、この「オフ・ザ・ボールの動き」の整備された、あるいは豊富なサッカーも、同じように好きなのです。それはなぜでしょうか。

コミュニケーション・ゲームとしてのサッカーにおける「メッセージ」は、一般には「ボールホルダーからパスの受け手へ」というものだと考えられているでしょう。パスを出す選手のアイデア、技術と言ったものがそこでは中心になる。昔よく言われた「使う側と使われる側」という言葉も、そのメッセージの流れを重視していることによって出てくるものだと思われます。

しかし、いいオフ・ザ・ボールの動きがあると、それも強烈な「メッセージ」だと私には思えるのです。

「ここへ出してくれ!」「ここのスペースを空けるから、そこを使ってくれ!」・・・観戦している私にも、そういうメッセージが届きます。フォローやサポートの動きも、「俺がここにいるから、お前は安心して上がってくれ!」というメッセージのように見えてくる。それはとても語彙の豊富な、発話者の多いコミュニケーション・ゲームを見ていると思えるのです。そしてそこに「全員参加ゲーム」としての美しさ、楽しさを私は見ます。

対して、オフ・ザ・ボールの動きの少ない、パスが足元、足元につながるサッカーでは、回りの選手がボール・ホルダーの次のプレイを「待って」しまうことがあります。これは私にはどうにも「単線」のコミュニケーション、一人一人がスピーチをするのだけど、あまり「対話」のないそれに見えてしまうのです。そこに優れたテクニックがあっても、ボールをもらってから一人一人が「さあ、何をしようか」というようなサッカーだと、私は退屈に感じてしまいます。

もちろん、上記二つの類例は極端に書いたものであって、どちらもそれぞれの要素を含んでいるのは当然です。オフ・ザ・ボールの動きも、ボール・ホルダーのオン・ザ・ボールのテクニックを信頼できないと思いきりのいいそれにならないし、テクニックの優れたミッドフィールダーも、受け手のオフ・ザ・ボールの動きがなければキラーパスを通すことはできません。どちらか一方だけのサッカーというものは存在しないし、そのどちらも重要であることは論を待たないでしょう。

先日レストランで友人と一緒に、Jリーグ第9節、清水エスパルスvs浦和レッズの試合を観戦しました。個人技に優れる浦和に対して、清水エスパルスはコンパクトに組織的に守り、そこからの攻撃も決してタテ一辺倒ではなく、フォローに来た同僚にショートパスをつないで前に出て行こうとします。むしろロングボールの少なさに、一緒に観戦した友人が「そこは大きくクリヤーだろう!」と叫ぶほどでした(笑)。

それは昨シーズンのはじめごろ、長谷川健太監督が就任して早くから見せていたサッカーの発展形であり、今年の元旦の天皇杯決勝で見せていたそれの、より向上した姿でした。ちょっと「いい内容」のサッカーで、私や一緒に観戦した友人の多くの好みのサッカーでもありました。浦和もよい反撃を展開し、ジャッジが荒れたのが残念でしたが、けっこういい試合を見たな、という気分にさせてくれるものでした。

この清水のサッカーも、中盤の選手のオン・ザ・ボールのスキルがなかなかに高いことによって、当初意図していたことがカタチになってきたと言えます。テクニックのある選手が、労をいとわずに走り回るから、周囲の選手と協力していいサッカーを展開していける。こういうサッカーがJでもさらに結果を出せると、バラエティに富んだリーグになって行けそうで楽しみですね。

現時点での課題はもちろん、このような「全員発話のコミュニケーション」は選手の消耗、疲労が激しいこと。ただ、このサッカーの場合は「一人一人が上手く休むこと」とかよりも、全員で試合をこなしていくうちに、味方の時間帯を大事に、長くすること、どうしても来る敵の時間帯に集中を高めることなどを学んでいく方がよいのではないかと、個人的には思います。

この日の試合は清水が勝ち、天皇杯からの成長ぶりを見せましたが、内容的には紙一重と言えるものでした。どちらのサッカー観が上でも下でもない。どちらにも長所もあれば、欠点もある。さまざまなサッカー観があり、いろいろなサッカーファンがいて、いろいろなサッカーがあるからサッカーは面白い。私は最近つくづくそう思います。なにしろ、世界で一番たくさんプレイされているスポーツですもんね。

さあ、今日もサッカーの「幅」を楽しもう。

それではまた。

05:56 PM [サッカー] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (2) |

April 11, 2006

サッカーの見方、考え方

V6010186もう時機を逸した感があるので、エクアドル戦についてはちょっとお休みして別の話題です。こんなタイトルだけど、みなさまに「サッカーはこう見ろ」なんてことを押しつけようなどという、おこがましい考えではないですよ、念のため(笑)。

最近、いろいろとサッカー界でも意見が割れていることが多いですね。ここしばらく考えていたのですが、その一つの原因として、それぞれの人の「サッカー観」の相違が横たわっているのではないかな、と思えてきました。ここではそれについて徒然にお話しようかと思います。

いきなり結論から申しますと、私はサッカーとは「コミュニケーション・ゲーム」だと思っています。もちろん、サッカーのみならずスポーツはどれでも、いやいや人生そのものにおいても、コミュニケーションは非常に重要ですね。そしてその中でも、攻守の時間帯が分かれておらず、11人の選手が非常に流動的に動く(動ける、動かざるをえない)サッカーという競技においては、それこそが生命線、競技としての意味を決めるものではないか、とさえ思うのです。

そういう私にとって、サッカーを見ていてもっとも楽しく、気持ちがいいのは、複数の選手の意図がキレイに連動し、それによって意表を突かれるようなプレーを見ることができたときです。そういう時には、あれよあれよと、こちらの見る目が追いつかないほど選手が連動していき、「なぜそこに出す!?」「なぜそこに居る!?」というプレーが見られたりしますね。私はそういうサッカーを見たときに「美しいなあ」と思うのです。

盟友の発汗さんが「額に入れて飾っておきたくなるような試合」と評した昨年のJ1リーグ第29節、シャムスカ監督率いる大分トリニータvsオシム監督率いるジェフ千葉という一戦には、まさに、「コミュニケーション・ゲーム」としてのサッカーの魅力が満載でした。双方ともに11人が一瞬たりとも休まずに、お互いの間に意図を通じ合わせようと考え続け、動き続け、走り続けている、そういう試合でした。本当にいい試合だったなあと、今でも思います。

こういう見方をする人にとっては、「しっかりと意思の連動した守備組織」というのも、見る快楽になりえます。この試合では両チームともに、全員が連動して高い位置でボールを奪おうという意思統一、それも、その時のフィジカル・コンタクトにいく激しさ、その覚悟まで統一されたような、素晴らしいそれを見せていました。さらに、奪えば全員がパスコースをつくりに散り、動き出し、走りこんで行って・・・そしてボールがその動き回る11人の意思をつむぐように動いていく・・・。実に私好みのサッカーがフィールドの上に90分間展開され、私はすっかり魅了されてしまいました。

さて、興味深いことに、こういうサッカーは各国リーグの中位クラスのチームに良く見られるように思います。考えてみれば、上位チームは(一般的には)大金を持ち、個人の能力の高い選手たちを集めることができる。そうすると、11人が連動していなくても勝ててしまうことがあります。よくいう「戦術は○○選手」という状態ですね。中位以下のチームは、選手個々の能力では劣るところを、力を合わせて、知恵と工夫で何とかしていかなくてはならない。そこにコミュニケーション・ゲームとしての魅力が膨らんでいく理由があるのでしょう。

しかし、世の中には別のサッカーの見方もあります。それはおそらくはサッカーを「テクニック・ゲーム」としてとらえる見方です。一人ひとりがどんなテクニックを披露するか、どんなファンタジーを見せてくれるか、という点でサッカーを楽しむものです。これはこれで実に正しい。私も欧州リーグを見るときはこちらの視点になることも多いです。「なんであんなことをできるんだ?」「ここでそういう発想か!」

私の友人は、先述の大分vs千葉の試合を「そんなにおもしろかったか?」という意見を持っていました。彼はまさに、「個人のファンタジー」によってサッカーを見るタイプの観戦者でした。「だって、そんなにすごいプレーはなかったぜ?」というのです。彼に言わせると、Jリーグではエメルソン以降「すごいプレー」をする選手は影を潜めており、ほとんど見る気がしないそうです(笑)。

さて、この差は、どちらが上とも下とも言うことではなく、単に「サッカー観の相違」ということになるのでしょう。さらに言えば、どちらかの見方しかしないファンは少なく、たいていの人がこの両者の見方のミックスをしており、どちらを重視するかという、バランスの違いだけが差を作り出している、ということなのだろうと思います。どっちが正しい、どっちが間違いということではまったくない。

ただ、繰り返しますが私は「コミュニケーション・ゲーム」としてのサッカーを好み、楽しみます。もっと言えば、個人能力の秀でた強豪を、われらが知恵と勇気と連動性で打ち倒した時、そこに非常な喜びを感じます。フェラーリのようなサッカーではなく、ホンダS600のようなサッカーを。一部のセレブリティのためのスーパースポーツカーではなく、日本の技術者たちが汗と努力で作り上げた、世界で「時計のように精密かつ美しい」と言われたライトウェイトスポーツが、私は好きです。そういうサッカーを、日本では見たいと思っています。もちろんそれは私個人の見方であり、そうではない見方も尊重しますけどね。

さて、願わくは日本代表にも、そういう自分たちの特質を生かした、連動性の高いサッカーをして欲しいのですが・・・。

そうそう、掲示板の方に「現日本代表の連動性」についてのご質問がありましたので、私なりの返答を書き込ませていただきました。こちらに対する補足にもなっていると思いますので、よろしければあわせてごらんいただけると分かりやすいかと思います。

それではまた。

02:55 PM [サッカー] | 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (3) |