そろそろ「サポート」を
※本稿は2002年W杯の直前に、当時の日本代表トルシェ監督に対するバッシングともいえる報道が過熱していた時期に書いたものです。最近のハリルホジッチ監督のおかれた状況や、言説などが当時と酷似してきていると感じたので、再アップします。当時の空気感を感じ、今の状況を振り返る一助にしていただけましたら幸いです。
***
そろそろ「サポート」を。
自分はフランスW杯への最終予選が始まる当時、加茂監督に対し批判的な立場を取っていた。理由は、加茂監督よりも、先に候補に上っていたネルシーニョ氏、ベンゲル氏の方が、予選突破の確率が高いと思っていたからだ。そしてそれを公言していた。試合前の選手紹介の最後に、監督が紹介されるが、そこでブーイングをしたいぐらいの気持ちだった。
しかし、最終予選が近づいてきた時、自分は批判を止めた。当時、やはりメディアは最終予選に臨む代表チームに大いに注目し、その周りに集まり、大騒ぎを繰り広げていた。やはり批判的な論調が多く、また内部の対立をあおるような記事もあった。これほどまでの注目を集めて最終予選を戦うのは初めてのことである。過度に批判的な空気は、代表に悪い影響を与えるだろう。自分はそう考え、予選突破までは批判をやめようと考えたのだった。
実際、最終予選当時の過剰な、批判的な報道は代表の雰囲気を悪くし、チームのパフォーマンスを落とした、と選手ものちに述懐している。監督が悪い、采配が悪い、特定の選手が悪い、予選突破のためには次勝たないと「自力」消滅、次こそ勝たないと、次こそ、こうするべきだああするべきだ、こういう選手起用をしない監督は無能だ、采配が悪い、采配が悪い…。そういう報道は、チームにはっきりと悪影響を与えたという。当然だろう。
予選を突破した後、世間は岡田監督に対し、「スター扱い」を始めた。選手たちに対する報道もまた過剰なものとなった。また一部ではやはり、経験の少ない岡田監督に対し批判の声もあった。自分も、岡田監督には批判的な考えであった。いくらなんでも経験が少なすぎる。W杯を経験したことのある監督は大勢いる。そういう人物に任せるべきだと考えたからだ。
しかし、W杯が近づいてきた時、自分は批判を止めた。最終予選時の教訓もあった。しかし、メディアは止まらなかった。批判的な報道も過剰であり、また逆に持ち上げる報道も過剰であった。そしてそれがきわまったのが例の25人を22人に絞ったときの騒動である。
あの時の、あの決断は当時の日本代表にとって非常に重要だったと思う。特にチームのメンタルに対し、与えた影響は大きかった。ただでさえ、不安定な状況になりかねないところへ持ってきて、メディアの騒ぎようがそれを何倍にも拡大したと自分は思っている。確かに、選手が、それもスター選手が直前に代表から外れるというのは重要なことである。大きな関心が集まるのは仕方がないとも言える。しかし、そのメディアの騒ぎっぷりが、チームに悪影響を与えたことも、また確かであろう。フランスで、日本代表は3敗し、帰国した。
先日のコスタリカ戦(注:2002年4月17日)に対しての、メディアの報道は批判一色である。その批判の中身自体も妥当なものは少ないと思うのだが、それよりも今、言いたいことがあるのだ。
そろそろ「サポート」を。
W杯まで後一月あまり(4月28日現在)。自分は代表チームに対する批判をやめようと思う。もともとトルシェ擁護派でもあり(笑)、あまり批判をしてこなかったのでそう大きな変化があるわけではないが、そろそろ「サポート」体制に入ろうと思う。4年前も、5年前もそうだった。その方が代表のためになると思うからだ。その方が日本サッカーのためになると思うからだ。
代表を過度に批判して、その回りによくない空気を作ることは、けっして代表チームにいい影響を与えない。代表のメンタルコンディションを悪化させ、ピッチの上にも影響を及ぼし、結果、最悪は負けさせてしまう。それを望むのか。
トルシェは欠点のある監督であろうと思う。特に、メディア対応はまずいようだ。しかも練習の非公開をした事によって、さらに反感も買っているのだろう。また代表監督はもちろん無批判に賞賛され続けなければならないものではなく、ある程度監視の目にさらされることも必要だろう。メディアがトルシェを批判するのも、常ならば一定の根拠を持つ。
しかし、これから代表はきわめてデリケートな時期に入る。特に、選手選考の最終発表がある5月17日まで、そしてそれから本大会に向けての期間、非常に多くの注目が「誰が入るか、誰が落ちるか」に集まることが予想される。4年前と同じである。誰しも自分の応援する選手に入って欲しい。しかし、誰かが入るということは、誰かが落ちるということなのだ。その当落のドラマ性は、多くの人をひきつける。
インターネットの掲示板などでも、「誰を入れろ、誰を落とせ」という書き込みが絶えない。そして、そういう書き込みは場が「荒れる」原因になりやすい。誰もが「代表」の勝利を願っているはずなのだが、自分の応援する選手を褒めるためには、同ポジションのほかの選手をおとしめることを平気でする。「○○選手は要らない!」などという心無い書き込みが増える。17日に向けてますます増えるだろう。メディアがそれと同じことをするのか。
この問題で大騒ぎをすることは、代表のためにならない。代表の雰囲気を悪くし、残った選手のメンタルコンディションを下げ、パフォーマンスを落としていってしまう。4年前と同じである。いや、今回は日本開催であるということを考えれば、より悪影響は大きいといえる。エクスレバンまでは国内の大騒ぎはそれほど伝わっていかなかっただろうが、今回は距離が近い。よりダイレクトに悪影響が伝わるだろう。
コスタリカ戦の中身が気に入らないメディア人がいることは分かる。自分の好きな選手の使い方が気に食わないことは理解できる。トルシェの記者会見での態度、あるいは練習を取材させない態度が許せないことも。しかし、それらは「私憤」に過ぎないのではないか。「○○選手をもっと見たい」、そういう個人的な欲望で、あるいは自分のプライドが傷つけられたという個人的な憤りで、代表の益にならないことをするのが、専門誌の役割なのか。
そろそろ「サポート」を。
お願いである。未曾有の戦いに挑む日本代表を、それを責任もって指揮しようとするトルシェ監督を、邪魔しないで欲しいのだ。足をひっぱらないで欲しいのだ。サッカーを正しく伝えて欲しいなどという贅沢は言わない。ただ、邪魔をしないでくれ。W杯後はいくら叩いてもいい。ただ、今しばらく、これからの一月あまりは、足をひっぱらないでくれ。あなたたちだって、日本が負ければいいとは思わないだろう。お願いだ。
それではまた。
| April 02, 2018
04:23 PM | [サッカー日本代表] | 固定リンク
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「平熱のワールドカップ」
いよいよ今日、ブラジルW杯開幕である。そこで今回は、ザッケローニ監督率いる日本代表およびその周辺の、本大会に臨む姿勢について書きたいと思う。それは特にメディアの姿勢についてであり、あるいは協会、さらにはもしかすると、私たち日本のサッカーファン、サポーターのものまで含むことになるかもしれない。私は今回の大会を「平熱のワールドカップ」と呼びたいのである。
これまでの5大会
「平熱のワールドカップ」とは何か。思い起こせば、1998年、日本代表は岡田監督に率いられ、フランスW杯へ初出場を果たした。メディアは、日本代表の冷静な戦力評価もなく、「岡ちゃんいける!1勝1敗1引き分けでGL突破見えた!」などと熱狂した。またそれがかなわず未勝利で帰国することになると、選手に水をかけるファンが現れるなど、とても平熱とは言えなかったのは誰もがご記憶のことだろう。しかし、初出場ならばそれも当然のことだ。
次は2002年になる。これは自国開催という、まだまだサッカー途上国だった日本にとっては異常ともいえるシチュエーションでの大会だった。当然「平熱」とは無縁の、熱い熱い狂騒状態の大会になった。日本代表がロシア戦で勝利し、GL突破を決めると、その熱狂も頂点に達した。しかし、自国開催で、かつ初勝ち点、初勝利、初GL突破であれば、それも当然のことだろう。
やや事情が違うのは2006年だ。W杯出場も3回目を数え、自国開催でもなく、狂熱から脱却してもよさそうなものだったが、ジーコ率いる日本代表は「史上最強!」「黄金の中盤の楽しい攻撃的サッカー」などという煽りに彩られた。一部ファンの冷静な声をよそに、メディアは「GL突破は当然」のような論調が支配した。しかしながらオーストラリア戦で8分間で3失点を喫し、1-3で敗北、GL敗退で大会を去ることになると、日本中が絶望の淵に沈んだ。熱狂と落胆の対比という点では、仏大会と並ぶナイーブさを見せてしまったと言えるだろう。
その絶望の故か、また志半ばで倒れたオシム日本の幻影を追ってか、2010年大会前の岡田日本代表(第2期)もまた、「平熱」とは言い難い状態で本大会を迎えた。こちらは2006年とは対照的に、悲観的な予想や、監督への声高な批判が横行した。しかし、実際には岡田監督が本大会直前に戦法を変え、自国開催以外では初めてのGL突破を果たし、その結果に世間は熱狂した。大会の前評判と結果を受けての熱狂の対比は、2006年のナイーブさの裏腹のように私には思えたものだった。
これまでの日本代表とそれを取り巻く環境を駆け足で振り返ると以上のようになる。いかがだろうか。繰り返される、自国の立ち位置の冷静な評価の不在と、その結果としての過度の熱狂と落胆。W杯出場5回目を数える国としては、そろそろこれから脱却してもいい、と思われないだろうか?
サッカー・ブランド・ネーションの不在
さて、2014年ブラジルW杯において、日本はグループCに入り、コートジボアール、ギリシャ、コロンビアと対戦することになった。私はこの対戦相手、対戦順を歓迎している。というのは、それが「平熱のワールドカップ」という意識を持つことへの、一助になるのではないかと思っているからだ。
グループの中ではコロンビアが最も強いと目されるが、それでもブラジルやアルゼンチン、あるいはイタリアやスペインの様な「サッカー・ブランド・ネーション」ではない。またコートジボアールやギリシャも、油断のならない相手とはいえ、一般への知名度は高いとはいえない。このような国々と戦う場合、メディアも煽ることがなかなか難しいだろうと思われる。「平熱」に近づく。
実はいちばん日本にとって望ましいのは、サッカー・ブランド・ネーション、W杯でベスト4以上、できれば優勝を狙うような国と初戦で当たることだろう。98年仏大会の初戦でアルゼンチンと戦った試合や、最近ではロンドン五輪でスペインに勝ったような試合である。優勝を狙うようなサッカー強国は、グループリーグではいったんコンディションを落とし、そこから上げていく場合が多く、番狂わせが起こる可能性も高い。しかし、今回の日本はそうではない。それも「平熱」につながるかもしれない。
対等だからこそ難しい、ライバルたち
また、私の持論なのだが、W杯では、ある意味「日本を眼中に入れていない」ような強国よりも、「日本を同等のライバルと見なし、みっちり研究しこちらの良さを消そうとしてくる」相手と対戦するほうが難しいのではないだろうか。98年W杯でもジャマイカだけに2失点をしており、02年にはベルギーと引き分け、06年にはオーストラリアとあのような試合をしている。そして、今回はコートジボアールとギリシャがそういう相手だと言えるだろう。
そういう意味では、初戦でオーストラリアと対戦した06年も、カメルーンと対戦した10年も、過度の煽りのない状態で大会に入れる好機だったかもしれない。しかし、上にも書いたように、06年は最強世代への期待から、そして10年は大会前の不調から、メディアも幾分平静を欠いた状態でキックオフを迎えてしまったように思う。
今大会は、10年のように準備段階で不調なわけではなく、コンディションを落とした状態で親善試合を行いながら、5連勝で本大会を迎えている。そういう意味では06年と同様の雰囲気を指摘する者もいる。しかし、その後アジアの一員になることが決まってい、一部報道では「格下」扱いまでされていた(ように記憶する)オーストラリアに比べると、今回はコートジボアールの攻撃陣がかなり強力であることは理解されており、報道面でもそこまでの緩みはないように思う(思いたい)。
日本は、サッカー・ブランド・ネーションとの対戦がないなか、戦力も立ち位置もある程度似通った相手とグループリーグ突破をかけて戦うのだ(コロンビアは一頭地を抜けているのは間違いないが)。02年も06年も10年もなしえなかった、彼我の戦力を冷静に見て、油断もひるみもなく、冷静にW杯に向きあうこと。そろそろそうするべきではないかと思うのだ。それが「平熱のワールドカップ」であってほしいと思う、一つ目の理由である。
「攻撃的に行きたい」という願い
話は変わるが、私が現在危惧しているのは、このような論調だ。
守備に重点を置いた前回W杯とは、違うスタイルでいく。決めた以上は、これを維持しながら解決していきたい(本田)
これ以外にも各所で、「守備的だった2010年とは違い、今回は攻撃的にいく」「攻撃的なサッカーがどこまで通じるか、チャレンジの大会」というような声を耳にする。またこちらでは
ザッケローニ監督については、強気ムードで攻撃的なチームを作り上げたと解説。戦術についても、前回大会では訓練されすぎた、リスクを嫌う「アンドロイド・フットボール」と評判だった日本サッカーは、今は見る影もなく
共通しているのは、岡田監督がGL突破という結果を出した2010年大会を「守備的だった」とし、「今回はそれとは違って攻撃的」としている点だ。私は、つねづねサッカーをこのような二分法で理解、記述するべきではないと思っており、今回のこのような論調に、大いに危惧を抱くものである。
ザック日本の「弱点」
言うまでもないが、サッカーは相手があるものである。こちらが「攻撃的」に行きたいと思っても、相手がそうさせてくれるとは限らない。にも関わらず「自分たちは攻撃的なチームなんだ」という思いが強すぎるとどうなるか。私はこれも「平熱」ではない試合への、あるいは大会への臨み方ではないかと思うのだ。
巷間、このチームの問題点は「ゲームコントロールのできなさ」にあるという評がある。また守備が問題だ、という論調も強いだろう。私はどちらも間違いではないと思うが、同時にそこに通底する問題として、「攻撃的に行かなくてはならない」という意識が強すぎることが大きな問題であると感じるのである。
ザック日本は2013年3月のW杯アジア最終予選vsヨルダン戦(アウェー)において敗北をしているのだが、この時の負け方が非常によくないものだったと私は感じている。2失点目が、酒井高徳が中盤でボールを失うところから始まっているのだが、これが中盤の低い位置での全く不必要なチャレンジドリブルからだったのだ。さらにはボールを失った後の高徳の緩慢なチェイスも災いして相手選手に独走を許し失点する。この失点、敗北にザック日本の問題点が集約されていると思う。
このシーン以外にも、数多くの場面で、あるいは試合で、ザック日本は「不必要なチャレンジ」のパスやドリブルが多いと感じる。言うまでもなく、いわゆるディフェンディングサードではチャレンジのパスやドリブルはしてはならず、またミドルサードでも悪い形で奪われることにつながるそれは禁物である。しかし、ザック日本ではそれが妙に多いように思うのだ。それは、「攻撃的に行かなくては」という選手たちの、ある種の思い込みからきているのではないか。
2010のトラウマ
また、守備の局面でもそれがみられるように思う。日本の守備は、前線の選手からプレスを掛けていくことで、最終ラインを助け、高いラインを維持しつつ、できるだけゴールから遠い位置で守っていくことを基本にしている。しかし、後方の準備が整っていないのに前線がプレスに行ってしまい、しかたなくボランチがフォローに釣り出され、空いたスペースを利用されて失点、ということがまま見られる。これも同様の思い込みからきているように思われる。
また、試合全体でも、開始直後など、相手がペースを上げて攻め込んできているような時間帯でも、ピンチをしのいだ後に無理をしてDFラインからつなごうとして、奪われての失点や、中途半端な甘いクリヤーを拾われてからの失点など、「守備技術の問題ではなく、守備意識の問題での失点」が枚挙にいとまがない。この意識の問題が、いわゆる「ゲームコントロール」の問題にもつながっていると思うのだが、その根っこには、「自分たちは攻撃的でなければならない」があるのではないかと思えるのだ。
そしてそれは、うがった見方を許してもらえれば、「2010年W杯で、ああいう戦い方をしたことへのトラウマ」から来るものではないだろうか。
「攻撃的に行きたい」「ボールをつないで戦いたい」と自分たちで思うのは自由である。しかし、サッカーは相手があるもの。その時その時の相手の出方や、時間帯、フィールドのどこであるか、そして何よりも試合の流れによって、その時取るべき最善のプレーは変わってくる。そろそろ2010年のトラウマから脱却して、「したいプレー」と同じくらい「するべきプレー」にも目を向けて欲しいと思う。それが「平熱」であれかしという、もうひとつの意味である。
例えばこんな・・・
例えば試合開始10分、20分、相手が飛ばしてきて強烈に前線からプレスをかけてきているような場合、慌てるのではなく「はいはい」とでもいうように、DFラインははっきりとクリア―し、攻撃も細かくつなぐのではなく、ラインの裏を狙うロングスルーパスを多くする、とか。
例えば、コートジボアールとの試合、終了5分前に2-2であったら、無理して攻めずに勝ち点を得ることを優先する、とか。コロンビアとの試合、0-1で負けていても、「そのままならグループリーグ突破」であるなら、無理して攻めない、とか(私は勝ち点計算などが苦手で、そういうシチュエーションが実際に発生するかはよく分からないのだが)。
「攻撃的に行く」とだけ考えていたら、目的であるグループリーグ突破、さらにはその後、一つでも多く勝ちあがること、そのために最善の、その時本当にするべきプレーが選べなくなってしまうことがあるのではないか。私が危惧しているのは、そういう部分なのである。選手たちには、ぜひ「平熱」で、自分たちのサッカースタイルを想いこみすぎることなく、ベストのプレーをチョイスし続けていってほしいと願う。
チャレンジャーであれ、ゲストではなく
また、「攻撃的な自分たちのサッカーがどこまで通じるか、チャレンジする大会」というような意見があるようだ(リンク先はまとめサイト)。私は、このような考え方は実は、言葉は悪いが「弱者のメンタリティ」なのではないかと思う。もちろん日本はW杯ではまだまだチャレンジャーであり、そういう意味では横綱相撲ではなく、チャレンジする精神を持たなくてはならないのは自明のことだろう。しかしそれは、強豪国の何倍も走って体を張って献身し、そして勝利をもぎ取る、ために発揮されるべきであって、「自分たちのサッカーがどこまで通じるか試す」ためなどであってはならないと思う。それは結局回りまわって、ヨルダン戦のあの失点シーンにつながる考え方だと思うのだ。
我々はチャレンジャーではあっても、もう「お客さん」ではない。正々堂々と、対等の立場でもって、正面玄関から胸を張って、W杯に乗り込むべきだと思うのだ。もちろん「自分たちのサッカー」を堂々と追求しつつ、しかし必要とあればガチガチに守り、石にしがみついてでも勝利をもぎ取る。そういうデターミネーション(不退転の決意)を持った、いわば「大人になった」日本代表。そうなればこそ、ベスト8以上が見えてくるのではないだろうか。
私は、欧州でもまれた選手たちも、ザッケローニ監督も、実は以上のような事はとっくにわかっていて、当然のようにピッチ上で表現してくれるのではないか、と思っている。あとは我々ファン、サポーターと、メディアの騒ぎ具合の問題だけだ。無駄に煽らず、過度に悲観せず、ただ私たちの代表である選手たちを信じて、「平熱」でキックオフを待ちたいものだと思う。
「平熱のワールドカップ」、もちろんグループリーグを突破し、ベスト8以上に到達した後は、最大限に熱狂しよう。そこに到達するためにこそ、入り口は平熱であったほうがいいと思うのである。
それではまた。
| June 12, 2014
11:09 PM | [ザックジャパン] | 固定リンク
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Number799感想 なんとも「もにょる」
(1)新しいNumberが出たので、一つ前の誌面について、「もにょる」と言ったのの続きを書こうと思う。自分メモ程度だけれども。t.co/4JeUxctN
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(2)まず、最初の風間さんの「長友祐都に見るニッポン力の活かし方」キーワードの二つ目が「考える力」なのだが、長友のそれとして具体例があげられているのは、「正確にボールを止められている」「(うまく調整しながら)攻撃に参加することは、長友もインテルで揉まれてよくなってきた」
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(3)これって「長友には考える力があり、それはニッポン力であり、それを活かすと欧州で活躍できる」という話になっているのかな?趣旨に沿った話ができていないように思える。電話インタビューか?
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(4)個人的にも「日本人選手は『考える力』において欧州でも秀でており、そのニッポン力を活かすとよい」とはあまり思えない。むしろ状況判断力では、欧州レベルで見ると水準以下の選手のほうが多いような気がする。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(5)また、「ニッポン力」の三つ目として風間さんがあげているのが、「自分の色を出せる力」。長友が自分の色を出しているということに異論はないけど、全体としてはもにょる。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(6)例えば「海外の監督は”誰かのために犠牲になれ”という考えを持ち合わせていない」犠牲になれ、という言い方だとあれだけど、「自分の色を出そうとして監督とぶつかってうまくいかない例」というのは、パルマの中田ヒデ、ボランチで起用された本田△とか、けっこういると思う。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(7)以上が風間さんの記事でもにょる部分で、総じて「長友をネタに自分のいつもの主張を言っているんじゃない?」という印象になってしまう。「考える力」「自分の色を出せる」って、今の日本の選手を謙虚に観察した結果出てきたキーワードとは、ちょっと思えない。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(8)次が木崎伸也さんの「ザッケローニ流とは日本人の知性と勇気の融合である」これ全体がもにょるんだよなあ。例えば「ボールにアタックする時に怖がっている」のは、本当に「日本人の助け合い社会の弱点だ」って、ザックが言ったの?本当に?
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(9)どうもこういう「この人はこう考えているはずだ」的な文章って、私は生理的にダメ。発言は発言として過不足なく記述してほしいし、そこからのその人の解釈は別に分けて書いてほしい。風間さんのと同じように、ザックの口を借りて自分の言いたいことを言ってるんちゃうか、と思えてしまう。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(10)で、こう来る。「前の選手はどんどんボールにアプローチしていこう」というザックの発言に対して、「lここでザックが指導者として優れていたのは、具体的な解決法として”体の向き”をアドバイスしたことだった」…えっ。えっ。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(11)ザック流の体の向きって、「後ろを気にさせない」ためだったの?本当?トルシェがボールを使って体の向きを調整させてた練習をやってたけど、あれは違うの?欧州の試合を見てると、けっこうザック流と同じような体の向きをDFラインとかが撮っていることがあると思うけど。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(12)みたいな疑問がどーっと湧いてくる。そのあと話は「発想力」へと移っていく。「トルシェはヒデや小野といった才能のある特定の個人に頼った」という記述も気になるけどまあいいや。もっともにょるのはそのあと。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(13)ザックは日本人の「発想力」の問題に関して「実にユニークな答えにたどりつく」「日本人の学習能力の高さを利用して、とことん解答例を覚えさせるという、”詰め込み式”の練習を採用したのだ」ええっ、それってユニークなの…?
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(14)「解答例を覚えることが、発想力をアップさせる近道になるー。ザックはそう考えているのだ」本当かなあ。これを確かめるには、日本でだけパターン練習をしているのか、欧州で指導しているときはどうだったかを調べればいい。あるいはザック本人に聞くか。そういうことをやってほしかったなあ。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(15)よく読んでみると、ザックの「日本人は発想力に問題がある」という発言は紹介されていない。「当然ザックにとってもこれは頭の痛い問題だったに違いない」という木崎さんの意見が書かれているだけ。「当然…違いない」これももにょる。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
(16)「日本人選手の発想力の問題」って、木崎さんが言いたかっただけじゃないかなあ。ザックはその解決策として「ユニークな」パターン練習をしてるわけじゃないんじゃないかなあ。体の向きもそうだけど、普通のことをしてるだけなんじゃないかなあ。私にはどうもそう思える。
— ケット・シーさん (@kettosee) 3月 28, 2012
| March 30, 2012
12:09 AM | [メディア] | 固定リンク
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